
- 著者:山際淳司
- 出版社:角川文庫
- 発売日:1985年2月10日(単行本は1981年8月)
- ページ数:253ページ
山際淳司さんのデビュー著書。全8編を収録したスポーツ・ノンフィクション集、そのうち4編が野球を題材にしている。
表題作「スローカーブを、もう一球」をはじめ、伝説的な一編となった「江夏の21球」、高校野球を描いた「八月のカクテル光線」、背番号94の男を追った「背番号94」。さらに、ボート、ボクシング、陸上など、競技も立場も異なるアスリートたちの姿を描いている。
シングル・スカルの選手・津田真男を取り上げた「たった一人のオリンピック」は、萩原健一主演で映画化の企画も立ち上がったが、実現には至らなかった。
収録作品
- 八月のカクテル光線
- 江夏の21球
- たった一人のオリンピック
- 背番号94
- ザ・シティー・ボクサー
- ジムナジウムのスーパーマン
- スローカーブを、もう一球
- ポール・ヴォルター
この本を初めて読んだのは、中学生だった。それまで自分にとって「野球の本」といえば、野球漫画か、技術を教えるノウハウ本だった。この本には、そのどれとも違う野球があった。ひとつのプレーの背後に、その人が歩いてきた時間がある。たった一球の向こう側に、人生がある。スコアボードに残らないものまで映っている。
そのことを、山際淳司さんに教えられた。とりわけ忘れられないのが、「八月のカクテル光線」と「スローカーブを、もう一球」だった。
山際さんの高校野球には、青春礼賛の熱さがない。高校球児を「夢を追う少年たち」として子ども扱いすることもなければ、ひたむきさや純粋さだけを切り取って美化することもない。もっと、一人の人間として見つめている。
夏の光。土の匂い。夕暮れのグラウンド。試合が終わったあとの静けさ。そして、もう二度とは戻らない時間。
山際淳司さんは、言葉で「夏の匂い」を書くことのできる人だった。
あれから数え切れないほどの野球本を読んできた。いまだにこの一冊を超える野球本には出逢っていない。
自分にとって初めて、「野球を書く」という、途方もない広さを教えてくれた。ページを開くたび、グラウンドの向こうから夏の匂いがしてくる。
八月のカクテル光線
1979年(昭和54年)夏の甲子園3回戦。高校野球史に語り継がれる、箕島(和歌山)対 星稜(石川)の延長18回を描いた一編である。
『Sports Graphic Number』第9号に「465球の奇跡」というタイトルで掲載され、書籍化にあたって「八月のカクテル光線」と改題された。
「465球の奇跡」が試合そのものを表すタイトルだとすれば、「八月のカクテル光線」は、その試合を包んでいた時間まで閉じ込めている。
カクテル光線とは、ナイター照明のこと。そこには、いま目の前で瞬いている光と、すでに過ぎ去ってしまった夏を照らす光という、二つの時間が重なっている。
照明の下を白球が飛ぶ。その行方ひとつでアウトになり、同点になり、試合が続き、終わる。一球が勝敗を変え、一瞬が、その後の人生まで変えてしまう。
山際さんは、この試合を、よくある「伝説の名勝負」として描かない。読み終えたあと最も強く残る主人公は、選手ではない。夏である。
八月の暑さ。暮れていく空。カクテル光線。いつ終わるとも知れない試合。終わってしまえば二度とは戻らない時間。
山際さんは、箕島と星稜の選手たちを描きながら、その背後に流れている「夏」という巨大な時間を描いている。
だから、この試合をリアルタイムで知らない人間にも届く。1979年の甲子園にいなかった読者でさえ、自分の記憶のなかにある夏を重ねる。
部活動をしていた夏。何かに夢中になっていた夏。二度と会えなくなった人と過ごした夏。取り戻すことのできない季節が、カクテル光線の向こう側から呼び戻される。
山際さんが文章によって生み出しているのは、出来事の再現だけではない。
もっと曖昧で、もっと身体的なものだ。
写真なら、その瞬間の姿が固定される。映像なら、そのとき実際に起きたことを見ることができる。しかし活字には、映像がない。だからこそ、読者は自分で空をつくり、光をつくり、歓声をつくる。
カクテル光線の色も、白球の軌道も、球場の匂いも、それぞれの読者のなかで違っていていい。活字には、その自由がある。
山際さんは1979年の甲子園を再現しているのではない。文章を読む一人ひとりのなかに、もうひとつの甲子園をつくっている。
だから「八月のカクテル光線」は、過去の名勝負を書いた作品でありながら、古びない。
野球には、ときどき時間の感覚を狂わせる瞬間がある。
ほんの数秒の一球が、何十年も語り継がれる。一瞬だったはずのプレーが、記憶のなかでは終わらない。
山際さんが書いたのは、まさにその不思議である。
一球を、一瞬を、永遠にする。それが野球というドラマの力であり、「八月のカクテル光線」という作品そのものなのである。
江夏の21球
1979年11月4日、日本シリーズ第7戦。広島東洋カープvs.近鉄バファローズ。広島が4対3と1点をリードして迎えた9回裏、江夏豊が投じた21球に焦点を当てたノンフィクション。
1980年、『Sports Graphic Number』創刊号に掲載され、これが山際さんにとって、ノンフィクション作家としてのデビュー作にあたる。
描かれる時間は、わずか26分49秒。しかし、読み終えたときの感覚はまったく違う。
一試合どころか、何人もの野球人生を見届けたような重さが残る。
球場の情景、自身の主観、後日の取材によって引き出した選手たちの証言、実況中継の言葉、野村克也の解説。異なる時間、異なる視点、異なる声を重ね合わせながら、21球をもう一度組み立てていく。
その構成は、どこか映画に似ている。
江夏の表情が映る。打者の心理へ切り替わる。ベンチへ移る。実況の声が入る。そして後年の証言によって、当時は見えなかった心の内側が差し込まれる。
映像ではなく、活字だからこそ可能になる編集によって、ひとつの「映画」が立ち上がっていく。
この一編がスポーツ・ノンフィクションを越えて文学になっている理由のひとつが、冒頭と結末の置き方にある。
書き出しはこうだ。
近鉄バファローズの石渡茂選手は、今でもそんなはずがないと思っている。
試合結果を知っている読者に対し、いきなり「そんなはずがない」と告げる。
何が、そんなはずがないのか。なぜ、何年経ってもそう思うのか。読者はその疑問を抱えたまま、21球の中へ連れていかれる。
山際さんが言葉によって創造した物語の扉である。
一方、結末では温度が下がる。
その直後、江夏はベンチに戻り、うずくまって涙したという。
ここで重要なのは、「涙した」ではなく、「涙したという」で終わること。
最後の最後に、山際さんは一歩引く。
自分が見たとは書かない。感動を増幅させようともしない。江夏の涙を劇的なクライマックスとして抱え込まず、伝聞としてそっと置く。
冒頭では読者を物語の内側へ引き込み、結末では逆に距離を取る。
この非対称性が美しい。普通なら、クライマックスに向かって感情を高め、最後に涙で締めたくなる。
しかし山際さんはそうしない。むしろ、物語が終わるほど筆者は静かになっていく。
だから余韻だけが残る。
幕が下りてからも、観客席にしばらく座っていたくなる映画のようである。
「江夏の21球」が教えてくれるのは、野球が単純な「球を投げ、球を打つゲーム」ではないということでもある。
ひとつのプレーが起きるまでに、いくつもの心理が押し合い、引き合っている。野球とは、目には見えないシーソーゲームなのだ。山際さんは、その傾きを文章で可視化する。だから21球しかないのに、世界が広い。
むしろ21球に絞ったからこそ、野球という競技の奥行きが見えてくる。
リアルタイムの実況は、「いま何が起きているか」を伝える。
だが、ノンフィクションは違う。
時間が経ったあとで証言を集め、出来事を掘り返し、複数の視点を重ねることで、「あのとき本当は何が起きていたのか」をもう一度問い直すことができる。
過去を書くことで、過去を現在に戻す。1979年11月4日は、すでに終わっている。
それでも「江夏の21球」を読み始めると、また試合が始まる。
過去の出来事を、現在進行形へ戻してしまう。
それが文章の力であり、「江夏の21球」という作品の凄さであり、山際淳司という書き手の力なのだ。
背番号94
「背番号94」は、長嶋茂雄監督の目に留まり、千葉県佐原市出身という同郷の縁もあって読売ジャイアンツに入団した黒田真治を描いた一編である。1981年3月、『野性時代』に掲載された。
故郷の大スターから期待を寄せられ、プロ野球の世界へ入った投手。しかし一軍のマウンドには届かず、やがてバッティングピッチャーへ転向する。
山際さんは、その人生を「挫折」という便利な言葉で括らない。プロ野球という巨大な世界のなかで、一人の男がどのように居場所を変え、野球のそばに立ち続けたのかを追っていく。
この作品で印象的なのは、山際さんが黒田の人生を語るために、感情的な言葉ではなく、いくつかの「数字」を使っていることである。
ひとつ目が、背番号。
入団当時の「63」が、バッティングピッチャーとなって「94」に変わる。
野球において背番号は、その選手がチームのなかでどの場所にいるのかが刻まれる。
63から94へ。数字だけを見れば、わずかな変化にすぎない。しかしプロ野球の世界では、その二桁の変化が、立場が変わったことを何より雄弁に物語る。
だからこそ、題名は「黒田真治」ではなく、「背番号94」なのだ。
人間そのものではなく、その人間が背負わされた数字をタイトルにする。その距離感に、山際さんの凄さがある。
ふたつ目が、120球。
バッティングピッチャーとなった黒田真治が、毎日投げ続ける球数である。
試合で先発投手が120球を投げれば、それは一仕事である。翌日は肩を休ませ、登板間隔を空ける。しかし打撃投手は、同じ球数を日常的に投げる。しかも、目的は打者を抑えることではない。打ちやすい場所へ、正確に、何度も投げる。
同じ「ボールを投げる」という行為でありながら、公式戦のマウンドとは意味がまったく違う。
山際さんは、その違いを書くことで、打撃投手を「選手になれなかった者」として描かない。むしろ、表舞台を支える一つの専門職として、その肉体的な過酷さと技術を静かに浮かび上がらせる。ここに山際さん流のリスペクトがある。
そして三つ目が、金額である。
入団時から変化していく給料を具体的に記すことで、黒田真治がプロ野球という職業世界のなかでどのような位置を占めてきたのかを示している。
背番号が「立場」を表す数字なら、120球は「労働」を表す数字。そして月給は、その仕事が社会のなかで与えられた「価値」を示す数字である。
そして、この作品には忘れられない場面がある。
バッティングピッチャーへの転向が決まり、高校時代の恩師と電話で話した黒田真治が、生まれて初めて野球のことで涙を流した、その直後である。
彼はボールを持って部屋を出ると、多摩川のグラウンドに行き、マウンドに上がると一球だけホームベースに向かって投げた。ボールはホームの上を通過して、そのままバックネットに当たり、ポトリと落ちた。
書かれていることだけを見れば、何の変哲もない。男がマウンドに立ち、一球を投げる。ボールがバックネットに当たり、落ちる。それだけである。
しかし、この「それだけ」が凄い。
ここで山際さんが、もし「その一球には彼の失われた夢が込められていた」と書いてしまえば、読者が感じる余地はなくなる。
「白球は青春の終わりを告げるように転がった」と比喩を置けば、それもまた答えになってしまう。
山際さんは何も説明しない。泣いた黒田が、一人でグラウンドへ行き、マウンドから一球だけ投げた。
それ以上でも、それ以下でもない。
だから読者は感じる。その一球の重みを。
山際さんの文章は事実を淡々と書いているようで、そこには大きな余白がある。
一見すれば凡庸な文章。しかし、凡庸であることによって普遍になる。
言葉を足すのではなく、削ることで読み手を奥へ連れていく。山際さんの文章の凄みが、最もよく表れた一節である。
そして、作品の最後もまた数字で終わる。
黒田真治の月給は、29万円。
この金額は、プロ入りした当初やファームで過ごした時代よりも高い。
投手として成功したわけではない。だからといって、その後の人生を「夢破れた男」として終わらせるわけでもない。
バッティングピッチャーという別の役割を得て、以前より高い報酬を受け取りながら、なおプロ野球の世界で生きている。
つまり、物語は終わっていない。むしろ「投手として成功する」という一本道から外れたことで、別の野球人生が始まっている。
山際さんは、そのことを「彼は新しい人生を歩み始めた」などとは書かない。
ただ、29万円という数字を置く。
山際さんが見つめたのは、記録集に残らない数字。そこに生活があり、給料があり、人生がある。
「背番号94」が描いているのは、その当たり前の事実。そして山際さんは、その当たり前のなかにこそ、野球というスポーツの最も深い場所を見ていた。
スローカーブを、もう一球
本書の表題作となった一編は、『野性時代』1981年4月号に掲載された。
舞台は甲子園ではない。描かれるのは、群馬県立高崎高校が戦った1980年秋の群馬県大会から秋季関東大会までである。
主人公も、甲子園のヒーローでもなければ、プロ野球のスターでもない。川端俊介という一人の高校生投手。
しかも、山際さんが目を向けたのは豪速球ではない。
スローカーブだった。
豪速球が投手の「能力」を映すものだとすれば、スローカーブには、その人間の「性格」が滲む。
力でねじ伏せるのではなく、相手を見ながら、少し外し、打者の時間を狂わせる。
山際さんが描こうとしたのは、野球の技術ではなく、もっと奥にある、一人の人間だった。
高崎高校は、この物語のあと、春のセンバツ出場を果たす。
普通なら、そこまで書きたくなる。
甲子園という大舞台に到達した瞬間をクライマックスにし、物語を完成させたくなる。
しかし、山際さんは、そうしなかった。
物語を閉じる場所に選んだのは、秋季関東大会の決勝戦での敗北だった。
映画『ロッキー』が、タイトルマッチの勝敗以上に、そこへ向かうトレーニングの日々を描いたように、山際さんも「到達した場所」より「そこへ向かっている時間」に光を当てた。
甲子園に出たから価値が生まれるのではない。甲子園を目指していた時間そのものに、すでに物語がある。
まだ何者でもない高校生が、自分でも知らなかった可能性に触れていく時間。勝つたびに少しずつ景色が変わり、敗れることで初めて、自分の現在地を知る。
山際さんは、その途中にこそ、人間の濃密な時間があることを知っていた。
敗北は負けた瞬間から、「この先」が始まる。勝利は過去形になり、敗北は未来形になる。だから「スローカーブを、もう一球」は、敗北で終わりながら、物語としては終わらない。
最後に残されるのは、結果ではなく、投球動作である。
川端俊介は、微笑んだ。そしてうなずくと、ゆっくりとスローカーブを投げる、あのいつものモーションに入っていく…。
なんという終わり方だろう。
試合は終わっている。けれど、川端はまた投げようとしている。
だから、その球は永遠に投げ終わらない。
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キャッチャーは捕手とも呼ばれ、守備番号は「2」である。

















