
1万5869人。
侍ジャパンの物語は、閑古鳥の鳴く東京ドームから始まった。
2006年3月。奈良・桜井市から双子の弟と深夜バスに揺られ、まだ輪郭の定まらない新しい大会へ向かった。サッカーのワールドカップに匹敵する祭典になる。そんな希望と期待に胸を高鳴らせながら、夜明けの高速道路を走った。
ふたを開ければ大会最低観客数。広いドームに空席が目立ち、応援団の「ニッポン」コールが、虚しく反響していた。チケットの入手困難が当たり前になった現在からは、想像もつかない静かさの絶景だ。
あの中国戦から20年。第6回WBCがやってくる。
回を重ねるごとに大会の輪郭はくっきりとし、視線は濃くなり、名簿に並ぶ名前は、より豪華になった。侍ジャパンは、あの歓喜を再び日本にもたらし、新たな神話を紡いでいく。
その一方で、国際大会という舞台に置かれたとき、野球という“村”が抱える体質や、新たな課題も照らし出された。ボールの行方だけでは測れない問題が、グラウンドの外で息をしている。
選手選考から、決勝戦の最後の一球まで。熱狂の表と、その陰にある現実を、順を追って見ていく。
※写真は主に侍ジャパン公式サイトから引用
2026年(第6回大会)からの新ルール

2026年大会から、国際大会として初めて「ピッチコム」「ピッチクロック」「拡大ベース」という三つの新ルールが本格導入される。前者2つは競技の迅速化を掲げた改革だが、侍ジャパンにとっては、ハンディキャップになりかねない。
NPBでは導入されていない「ピッチクロック」は、試合時間短縮のため、MLBでは前回大会直後の2023年シーズンから実施されてきた。投手は、捕手から返球を受けてから、走者なしでは15秒以内、走者がいる場面では18秒以内に投球動作に入らなければならない。違反すれば1ボールが加えられ、カウント3ボールの状況で違反した場合には四球となり打者は出塁する。逆に打者も残り8秒までに打席で構えを取らなければならず、こちらも遅れれば1ストライクが与えられる。追い込まれた状況で違反すれば三振となる。
日本が長く磨いてきたのは、「間」であり、「探り合い」である。沈黙の数秒に込められた駆け引き、視線ひとつで揺らす心理戦。そこに宿る機微が、野球の深みをつくってきた。テンポと機械化が前面に出る野球は、その文法を変えてしまう。
相手を洞察して次の一手を考える時間がなく、先に頭に入れておいたデータを頼らなければならない。
2026年のWBCで侍ジャパンは、新しい時代の野球と向き合う。
出場メンバー

サッカーやラグビーの世界では、代表招集は最高位の勲章だ。しかし、ベースボールという“村”では、国際大会はしばしば「辞退の歴史」と同義語になる。シーズンが至上であり、2月のキャンプから11月のワールドシリーズまで、10ヶ月という長期間、公式戦162試合という長い航海が最優先される構造の中で、代表はどうしても従属的な立場に置かれてきた。
出場辞退者
今大会でも、今井達也、ムーキー・ベッツ、フレディ・フリーマンといった超大物が、個人や家族の事情を理由に名簿から外れた。責めることはできない。それぞれの生活があり、価値観があり、背負う契約がある。それでも、代表リストの空白には、野球という競技の立ち位置が透けて見える。

一方で、世界ナンバーワンの投手でアメリカ代表のポール・スキーンズのように、「国のために戦うことは何よりの誇り。要請されたら断る選択肢はない」と言い切るニューカマーも現れた。巨大なビジネスの只中にあって、なおナショナルチームの意義を理解しようとする姿勢は、野球の未来にとって小さくない光だ。
球団からの抑制
今大会、佐々木朗希の出場と大谷翔平の二刀流起用は、所属するドジャースによって止められた。カブスの今永昇太も同じくだ。
ファン・ファースト、選手ファーストであれば、本人の意思に外野が踏み込む余地はない。しかし、今永も大谷も佐々木も二刀流や出場の意向を示していたにもかかわらず、球団がストップをかけたという事実は重い。
佐々木には過去に60日間の負傷者リスト入りの実績があり、規定上、球団が出場を拒否する権利を持つ。法的には正当な契約である。だが、佐々木はワールドシリーズでもマウンドに立ち、身体に違和感を抱えたわけでもない。現時点で「万全」とされる状態にある投手を、制度を盾に封じることが、果たして野球界全体の利益にかなうのか。
WBCは野球界におけるワールドカップであり、選手が目指す最高峰の舞台だ。契約社会に生きるアスリートは、「バイクに乗らない」「現役中はスキーをしない」といった条項を受け入れるが、それは私的領域のリスク管理である。WBCは違う。競技そのものに最も貢献度の高い国際大会だ。その舞台に立つことを禁じる権利が、どこまで許容されるのか。問いは残る。
保険問題

2023年の第5回大会では、ドジャースのクレイトン・カーショウが保険の問題で出場できなかった。ここにもまた、制度という見えない壁がある。
WBCの保険は、大会中に負傷し、その影響でレギュラーシーズンを欠場した場合、球団が支払う年俸の一部または全額を補填する仕組みだ。前後のメディカルチェックによって「大会起因かどうか」が判定され、認められれば補償が行われる。
メジャー40人枠に入るWBC参加予定選手は全員、MLBと選手会が合意した保険会社の審査を受ける。過去の負傷歴などを理由に「適用不可」と判断された場合、その選手がWBCで負傷しても、球団が特別に保証しない限り、欠場期間の年俸は守られない可能性がある。複数回の手術歴や、前年に60日以上IL入りしていた選手は適用が難しいとされる。
代表側も無策ではない。投手であれば投球数の上限や登板間隔を事前に提示し、球団の不安を和らげようとする。だが、2023年大会でエドウィン・ディアスが右膝を負傷した例のように、想定外は起こる。メッツは保険で年俸分の補償を受けると報じられたが、失われたシーズンそのものは戻らない。
昨季ワールドシリーズ第7戦で九回に劇的な同点弾を放ち、チームの2連覇に貢献したロハスは、悲願だったベネズエラ代表としての出場を保険の問題で断念せざるを得なかった。「本当に失望している。国を代表する最初で最後かもしれない機会が、保険で止められるとは思わなかった」と語る。その落胆は、数字では測れない。
3年前の決勝後から出場を表明していたマイク・トラウトもまた、保険の壁に阻まれた一人だ。ファンも本人も楽しみにしていた大谷翔平とのリベンジは「保険」という存在によって幻となった。
プエルトリコのキャプテンを期待されたフランシスコ・リンドアも夢を砕かれた。プエルトリコの有名歌手が、私財を投げ打って保険金を払うと申し出たが、それでも却下された。
高額年俸という恩恵を受けるメジャーリーガーは、その反動として厳格なリスク管理の対象となる。理屈は分かる。だが、国を背負って戦う機会は数年に一度しか訪れない。その扉が、球団ファーストや書類一枚で閉ざされる現実は、あまりに乾いている。
野球は誰のものか。球団か、選手か、あるいは国か。WBCは、その問いを鋭く突きつけている。
これらの課題は、WBCという大航海において、氷山のように水面下に潜みながら、行く手を阻んでいる。
推進力を得て帆を張ったはずの国際大会が、制度と利害の波に減速させられる。理念だけでは前に進めない。選手の意思、球団の理解、リーグと大会主催者の制度設計。その三層が噛み合わなければ、WBCは真のワールドカップにはなり得ない。
世界一を決める舞台を持続可能なものにするためには、枠組みづくりが不可欠だ。これは感情論ではない。国際競技としての野球の未来を左右する、構造の問題である。
氷山を回避するのか、それとも砕いて進むのか。WBCは今、その分岐点に立っている。
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野球界の暗部は、ここで置いておこう。制度や保険の話は、どうしても空気を冷やす。ここからは、グラウンドに立つ者たちの話だ。
2026年の侍ジャパンは、名簿を眺めるだけで圧倒される。評論家のなかには「前回大会のほうが完成度は高い」と評する向きもある。だが、履歴書を一枚ずつめくっていけば、今年の布陣がいかに豪奢かは明らかだ。数字と勲章が、静かに物語っている。
中心に立つのは、宇宙一の野球選手・大谷翔平だ。自ら「今が全盛期」と語る男が、その言葉どおりの打球と存在感を携えて帰ってくる。
そして、ワールドシリーズMVPの王冠を戴いた山本由伸。打者の最高峰と、投手の最高峰。その両輪が同じ国のユニフォームを着るという事実は、時代の奇跡に近い。
前年のMLBシーズンMVPと、ワールドシリーズMVPが同一代表に名を連ねるのは、2013年WBCのベネズエラ代表以来だ。ただし、あのときは両者とも野手だった。打者と投手がそろってこの条件を満たすのは、史上初である。もっとも、2013年のベネズエラは一次ラウンドで姿を消した。勲章は、勝利を保証しない。野球はそういう競技だ。

それでも層は厚い。昨季の最多勝、最高勝率、最多奪三振を手にした村上頌樹(阪神)、最優秀防御率の才木浩人(阪神)、最多セーブの松山晋也(中日)、最多安打の村林一輝(楽天)。タイトルホルダーでさえ名簿から外れる。その現実が、今大会の充実度を雄弁に語る。

なかでも、WBCならではの選出がショート・源田壮亮だ。大会が3月に行われるという日程が、この判断を後押しする。球春はリセットの季節だ。前年の成績も、好不調も、一度ゼロに戻る。もしこれが秋開催のプレミア12であれば、シーズンの勢いをそのまま持ち込む形となり、巨人の泉口友汰が選ばれていた。
しかし、慣れない球場や打球速度の上がるメジャーリーガーを相手にするには、源田がいる意味が大きい。前回大会も源田の守備がなければ準決勝で負けていた。
そして今回の名簿を見渡せば、セ・リーグMVPの佐藤輝明が控えに回る可能性すらあるという、ぜいたくな構図が浮かぶ。ただ、野球は紙の上では決まらない。前回大会でも、当初は山川穂高の控えと目されていた岡本和真が、宮崎合宿で存在感を示し、開幕戦のスタメンを勝ち取った。
蓋を開けたとき、誰がグラウンドの中央に立っているのか。その予測不能こそが、代表チームの醍醐味であり、WBCという舞台の、もう一つの物語である。

大谷翔平に焦点を当てれば、もうひとつ、興味深いジンクスが立ちはだかる。
過去5回のWBCにおいて、「前年のシーズンMVP受賞者は優勝できない」という奇妙な法則が続いている。スターはいても、頂点には届かない。栄誉の余熱をまとったまま春を迎えた選手は、なぜか最後の歓喜から遠ざかってきた。
前回大会では、アメリカ代表のポール・ゴールドシュミットがその当事者だった。レギュラーシーズンMVPの称号を引っ提げて臨んだが、決勝で日本に敗れ、ジンクスは更新された。勲章は輝いても、トロフィーは別の場所に置かれる。WBCはそういう無情さを持つ。
そして2026年、大谷翔平がその系譜に名を連ねる。前年MVPという肩書きを背負いながら、世界一を狙う。これまでも数々の前例を塗り替えてきた選手だ。二刀流は不可能だと言われ、ホームラン王は壁だと言われ、そのたびに常識を書き換えてきた。
大谷翔平が初めてこの壁を破るのか。それとも、WBCという大会がまたひとつ、例外を許さない物語を紡ぐのか。春のトーナメントは、個人の栄誉とチームの頂点が交差する、静かな実験場でもある。
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アメリカ、ドミニカ、ベネズエラ。名簿だけを見れば、史上空前と呼ぶにふさわしい精鋭が並ぶ。だが、WBCはマンパワーを足し算すれば勝てる大会ではない。短期決戦、しかもシーズン前。歯車が一枚でも噛み合わなければ、優勝候補はあっけなく姿を消す。前回のドミニカが最強メンバーを揃えながら一次ラウンドで散った事実が、それを物語っている。
ジンクスを重ねるなら、前年のサイ・ヤング賞投手もまた、WBC制覇には届いていない。決勝のマウンドにすら立てていないのが現実だ。個の勲章は、代表の勝利を保証しない。この大会は、肩書きよりも「まとまり」がものを言う。
日本が他国と差をつけてきた要因は、直前の宮崎合宿にある。同じ宿舎で寝起きし、同じ食事を囲み、同じ練習を繰り返す。スタンドを埋めるファンの声を浴びながら、チームは一つの塊へと変わっていく。短期間で“代表”になるための装置が、宮崎にはある。
対照的に、MLB勢は所属球団のキャンプが最優先だ。スターが顔を揃えるまでに時間がかかる。前回、一次ラウンドで敗退したドミニカは、全員が顔を合わせたのが開幕前夜だった。準備不足は、短期決戦では致命傷になり得る。
もっとも、侍ジャパンにも懸念はある。今回は9人のメジャーリーガーがアメリカでキャンプを張っており、宮崎に集えた人数は代表の約3分の2。
3月2日の大阪での強化試合まで揃わない。ほとんど“ぶっつけ本番”で、初戦の台湾戦を迎える構図だ。
井端監督は三度にわたりマスコミをシャットアウトし、サインプレーや細かな連係を確認した。しかし、その場にメジャーリーガーは不在だった。実戦の一瞬で噛み合うかどうかは別問題だ。

その不安を和らげたのが、ダルビッシュの存在だった。ピッチコムやピッチクロックへの適応についての具体的な助言はもちろん、若手への声掛け、練習の質の引き上げ、野球観の共有。精神的支柱としての重みは計り知れない。WBCにはコーチ枠があと一つある。できることなら全日程に帯同し、知見を注いでほしいと願う声もある。もし連覇を成し遂げるなら、ダルビッシュにも優勝リングを授与してほしい。

そして、宮崎を照らしたもう一つの光があった。わずか2日間とはいえ、松井秀喜の来訪である。静かにグラウンドに立ち、若い選手たちに言葉をかける姿は、太陽のようだった。これまで侍ジャパンとは距離のあった日本のレジェンドが、ようやく日の丸に関わる。その象徴性は小さくない。
怪我人が続出するなかで揺れる代表に、経験と歴史が加わった。侍ジャパンに足りなかった最後のピースがはまった感覚が、今年の宮崎にはあった。
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2月22日、三連休のただ中。サンマリンスタジアムには、2万9702人の観衆が詰めかけた。侍ジャパンは、初めてユニフォームを相手に向ける。相手は前年の日本一、ソフトバンク。
近藤健介、周東佑京、牧原大成、松本裕樹、最多4人の代表選出を誇るチームとの対戦は、いわば“身内”との真剣勝負だ。
結果以上に意味があったのは、ベンチの光景である。練習試合には出場できないにもかかわらず、菅野智之と菊池雄星、二人のメジャーリーガーが合流した。試合に出なくとも、同じ空気を吸い、同じ時間を共有する。それだけでチームの温度は変わる。

ダルビッシュが昨年から示してきた姿勢、代表への敬意と覚悟。それが、他のメジャーリーガーにも静かに波及し始めている。思い起こせば、第1回、第2回大会ではイチローや松坂大輔が合宿初日から姿を見せ、先頭に立った。その背中が、初代王者、そして連覇へとつながった。代表は、技術だけでなく、態度で作られる。

菅野は、最後となる自身のWBCへ向けて気迫をにじませる。2017年大会ではエースとして日の丸を背負った。今大会では第3戦・オーストラリア戦での先発が予定されており、早めに日本で調整を進める決断を下した。

菊池も合流。MLB側の規制さえなければ初日から参加していたという。その意欲は隠せない。松井裕樹の負傷という暗い報せがチームを覆うなか、二人の存在は確かに太陽だった。
試合はあいにくの雨。断続的に中断を挟み、リズムは途切れる。プレミア12の合宿初日も雨だった。井端監督は、どうやら雨に縁があるらしい。本戦はすべてドーム球場とはいえ、濡れた芝、湿ったボール、重たい空気。屋外球場の不確実性こそ、野球の原風景でもある。

厳しい内角攻めがない練習試合とはいえ、打線は活発だった。佐藤輝明、森下翔太、坂本誠志郎のタイガース勢が躍動し、近藤健介も主力の実力を見せる。佐藤は村上宗隆や岡本和真の状態次第では先発奪取も現実味を帯びる。森下も吉田正尚のコンディション次第で、十分に競争圏内だ。

一方、投手陣はまだギアが上がり切らない。時期的な調整段階という要素もあるだろう。加えて、ピッチコムやピッチクロックへの適応という新しい課題もある。投げ急ぐことで、普段のテンポと勝手が違う。間合いを測る投手にとって、秒針は想像以上に重い。だが、本番は2月末の名古屋から始まる。そこに照準が合えば問題はない。

捕手では坂本誠志郎が本塁打を放ち、正捕手争いで一歩前に出た。山本由伸が先発する試合では若月健矢がマスクをかぶる構図だが、菅野智之、菊池雄星が投げる試合では坂本の起用が有力か。投手との呼吸、サイン交換のテンポ、ベンチとの橋渡し。捕手は単なる受け手ではない。代表の鼓動を整える存在である。
7回表終了時点での降雨コールドゲーム。雨のなかの一戦は、まだ序章にすぎない。だが、そこには連覇へ向かう物語の輪郭が浮かび始めていた。
宮崎キャンプ最終戦

2月23日。宮崎キャンプ最後の練習試合にも、3万人近い観衆が詰めかけた。スタンドは祝祭の空気に包まれていたが、スコアボードは冷静だった。侍ジャパン、0―4の完封負け。前日の13得点という打ち上げ花火から一転、低空飛行で締めくくることになった。
この0―4という数字は、プレミア12決勝で台湾に屈したときのスコアと重なる。偶然に過ぎないが、野球はときに、こうした符号で心をざわつかせる。

9回までノーヒット。出た安打は、サポートメンバーとして帯同する巨人・中山礼都の一本のみ。練習試合とはいえ、メジャー組不在の影響は否めない。打線の厚み、打席での圧力、相手投手に与える無言の重み。その差は、数字以上に存在する。
8回、秋広に浴びた一発も、マウンドにいたのはサポートメンバーの佐藤柳之介だった。代表とサポートの境界線が曖昧なまま戦う“中途半端”な状態は、名古屋での強化試合にも続く。
若手にとっては貴重な経験であることは間違いない。だが、代表強化という観点に立てば、メジャー組の合流時期は再考の余地がある。初日からとは言わないまでも、せめて実戦には間に合うようにしなければいけない。
それでも、唯一ぶれなかったものがある。守備だ。今日も失策ゼロ。佐藤輝明の三塁での華麗なフィールディング、センター牧原大成のダイビングキャッチ。点は奪えなくとも、アウトは積み重ねる。これこそが、侍ジャパンの基盤であり、短期決戦で最も裏切らない武器である。
練習試合や壮行試合の本質は、勝敗ではない。むしろ、負けることで露呈するほころびを洗い出し、修正することにある。今回はピッチクロックへの適応も大きなテーマだ。佐藤輝明、髙橋宏斗が違反を取られた。失点ではなく、こうした“違和感”こそが収穫である。本番で同じ過ちを繰り返さないための授業料だ。

10回裏の特別練習では松本裕樹が登板。球速は140キロ台にとどまったが、4日後の名古屋はドーム球場。環境は変わる。湿った空気から、一定のコンディションへ。投手の感覚もまた、整っていくだろう。
宮崎は終わった。光と影を残して。代表は完成品ではない。揺れながら、削りながら、名古屋、そして本戦へと歩を進めていく。
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ついに、大谷翔平が合流した。
その事実だけで、空気の密度が変わる。ファンはまだ打席にも立っていない背番号に視線を集め、相手は無意識のうちに構える。試合に出なくとも、この男が“いる”という現実そのものが、戦力になる。

歴代の侍戦士にもスターはいた。だが、大谷の凄みは、存在そのものが圧力になる点にある。試合の打席に立たずとも、マウンドに上がらずとも、チームの士気を押し上げ、観衆を熱に変え、相手の想像力を縛る。グラウンドの上で起きる前に、すでに何かが動いている。

吉田正尚もまた、静かに調子を上げている。打撃練習で柵越えを連発し、ボールは迷いなくスタンドへ消えていく。松井裕樹の離脱という暗雲が差しかかった直後だけに、その快音は救いだった。MLB組の存在感は、数字以上に心理に作用する。

そして、中日との壮行試合で4番に座った佐藤輝明。難しいコースをさばき、レフトスタンドへ運ぶ。前回大会、山川穂高の控えと見られていた岡本和真が、合宿での打席をきっかけにスタメンを奪い、そのまま大会を代表する打者へと変貌した。あの記憶がよぎる。サトテルをベンチで温めておくのは、贅沢であり、リスクでもある。

投手陣では、決勝先発の可能性も見せた種市篤暉。ランナーを背負った場面でも、回跨ぎでもいける伊藤大海をリリーバーで使うなら、種市は1次ラウンドのチェコ戦で先発してもらうのはどうだろうか。

反対に曽谷龍平はまだ波に乗り切れない。ソフトバンク戦に続き、この日も2失点。調整過程とはいえ、内容に切れ味が戻らない。ボールは走っているが、決め球が甘く入る。短期決戦では、わずかな甘さが命取りになる。これが昨シーズンの印象が完全にリセットされる球春のWBCの怖さだ。
もしパフォーマンスが上向かなければ、米国ラウンド進出時に予備登録の今井達也や小笠原慎之介との入れ替えが現実味を帯びる。できれば、宮崎キャンプ初日から汗を流してきた者たちで、この大会を戦い抜いてほしい。準備の時間を共有し、同じ雨に打たれ、同じ課題を抱えてきた者たちの結束は、名簿以上の力になる。
壮行試合は、単なる前哨戦ではない。期待と不安が同時に輪郭を持つ場だ。大谷の合流で高まる熱。佐藤の一振りが示す可能性。曽谷の揺らぎが投げかける問い。
侍ジャパンは、完成品ではない。その未完成さこそが、物語を前に進める。ここから、本当の戦いが始まる。
2月28日:中日戦

春の陽気がグラウンドを包みはじめると、侍ジャパンのバットも温度を帯びてきた。
大谷翔平が放ったバッティング練習の打球は、5階席へ、そしてバックスクリーンの電光掲示板へと吸い込まれる特大弾。誰もが、その弾道を目で追いながら、これから始まる大会の輪郭を重ねている。

その熱は、初回から試合に伝わった。牧秀悟が迷いなく振り抜き、打球はフェンスを越える。芯を食った打球は、空気を切り裂く。

そして、佐藤輝明のスタメン起用をどうするかという問いに加え、牧秀悟の中央大の後輩・森下翔太も首脳陣を悩ませる存在になってきた。この日も2回に一発。振れている打者をベンチに置くのはもったいない。一次ラウンドの展開次第では、決勝ラウンドから先発も十分に現実的だ。

悩みは、投手陣にもある。伊藤大海だ。本人は先発を希望している。だが、ランナーを背負った局面でも変わらない投球ができるタイプでもある。前回大会の準々決勝、大谷翔平が築いたピンチを消した投球を思い出せば、リリーフ起用のほうが勝利への寄与度は高い。短期決戦は、役割の最適化がすべてだ。希望よりも、機能が優先される。
そして今大会、新たな構造的課題も浮かび上がった。メジャー組が増えたことで、次回からはサポートメンバーなしでもスタメンを組める状態にしなければならない。現状ではサポートメンバーが先発し、長いイニングを担う場面が生まれている。本来、スタメンは本戦を戦うメンバーで固め、サポートは短いイニングの補完に回すべきだ。
そもそも、なぜMLB勢が実戦に出てはいけないのか。フル出場を抑制するのは理解できるが、1試合3イニング程度であれば、むしろ実戦感覚を取り戻すために必要な時間だ。前回大会、宮崎キャンプに自ら参加したダルビッシュ有が実戦登板できず、調整が難航した事実は重い。実戦の感覚は、ブルペンでは完全には養えない。
メジャーリーガーが少ないイニングでも宮崎や名古屋の試合に出場できる環境を整えるべきだ。現在の一律的な規制は、再考の必要がある。制度は、競技の発展を妨げてはならない。
これからメジャーを目指す選手は確実に増える。次回大会では、代表の半数以上がMLB所属という状況も十分にあり得る。その未来を見据えれば、今回露呈した課題は先送りできない。
春の光のなかで、侍ジャパンは確実に温まっている。だが、熱だけでは勝てない。制度、役割、準備、そのすべてを整えてこそ、連覇への道は開ける。
強化試合
3月2日:オリックス戦

この日を待っていた。長い冬がほどけ、全員がそろった侍ジャパン。グラウンドに立つ面々を見渡すと、ようやく球春が現実になる。
だが、集合はゴールではない。ここから一つになる作業が始まる。本戦まで、試行錯誤が許されるのは2試合。限られた時間のなかで呼吸を合わせ、MLB組は実戦の間合いを取り戻さなければならない。
注目の打順は、1番・近藤健介、2番・大谷翔平。前回大会と同じく、近藤の出塁が、そのまま大谷の打席結果を決める。近藤が倒れれば、大谷もアウト。近藤が塁に出れば、大谷も出塁。ただ、近藤の状態は前回ほどの切れ味を感じさせない。そこが気になる。
対するオリックス投手陣は気迫十分だった。本来ならスタンドに消えていてもおかしくないコースでも、大谷が差し込まれる。ストレートの球威が上回っていた。

先発・菊池雄星は、宮崎キャンプ合流の影響で1週間以上実戦から遠ざかっていた。初回からリズムをつかめず、味方の守備の乱れも重なって3失点。集中力が感じられない。急造チームのぎこちなさが、随所に顔を出す。
韓国戦での先発が濃厚とみられるが、相手には世界最高の打者へと成長する可能性を秘めたキム・ドヨンがいる。国際舞台での一球は、シーズンとは重みが違う。本番で菊池がどんな表情を見せるのか。

菅野智之もまた、慎重に感触を確かめる。マウンドの傾斜、ボールの指離れ。オーストラリア戦ではトラヴィス・バザーナとの対戦が待つ。国を背負うマウンドは、感覚の微差を許さない。
そんななか、ひとり強烈な光を放ったのが吉田正尚だ。5階席へ突き刺す一発。これぞメジャーリーガーの本塁打。侍ジャパンの希望はその弾道に凝縮されていた。
そして印象的だったのは、大谷翔平が終始笑顔だったことだ。この3年でワールドシリーズ制覇を二度経験し、どこか余裕をまとっている。背負うのではなく、楽しむ。大谷スマイルが、侍ジャパンの熱を加熱油となるか。
明日はオーダーを変える。1番・大谷翔平。岡本和真も名を連ねる。正直に言えば、前回大会のような「負ける気がしない」という空気はない。自信はあるが、確信には至っていない。そのわずかな揺らぎを、大阪で払拭できるか。失敗が許されるのは、あと一度だけだ。
おそらく、今年の侍ジャパンは前回大会のアメリカ代表に近い道をたどる。本戦を戦い抜きながらチーム・ビルディングを進め、結束を強める。準々決勝を前に完成形へと近づき、マイアミへ乗り込む。
WBCは、前回の「日本の野球を世界に見せつける大会」から、「日本人がMLB式ベースボールに適応できるかを問う大会」へと変化している。
この春、侍ジャパンはその証明を迫られている。
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