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ベースボール白書

野球観戦、野球考察。活字ベースボールを届けます。『WBC 球春のマイアミ』をリリースしました。

WBC2023準決勝〜メキシコ戦

Amazon Kindle『WBC 球春のマイアミ』より一部を抜粋。語り継がれる準決勝を振り返る。

野球は観客席にボールが飛び込むスポーツ。危険にもかかわらず、それを良しとする。野球場をボールパーク、すなわち「公園」と表現するように、選手と観客が一緒になって楽しむ。ローンデポ・パークはWBCの決勝ラウンドを共有するのに相応しい。

野球史に輝くこの試合に名前をつけるなら「ヘラクレスの選択」

"あえて苦難の道を選択すること"を指す。栗山監督は日本中からの大批判を浴びる可能性もあったが、大バクチを打った。野球の監督は浪漫と我慢の両方を同時に持つ二刀流。それを栗山英樹は高校野球のキャスター時代に痛感した。

3月21日は17年前、第1回大会でキューバを破って初代王者に輝いた日。しかし、準決勝は侍ジャパンが2大会連続で敗退している"鬼門"。相手は30人中20人が正真正銘のメジャーリーガー。第1回大会では内野手として参戦した監督のベンジー・ギルはエンゼルスの一塁コーチ。大谷のことを知り尽くしている。日本で戦ってきた相手とは扉の重みが違う。今大会で最も突破が難しい試合が始まる。

城石内野守備・走塁兼作戦コーチは球場の雰囲気に飲まれそうになっていた。ルチャ・リブレ(メキシコのプロレス)の格好をしたマスク姿のファンが大挙し、隣にいる人との会話が聞き取れないほど球場が騒がしい。選手が試合に集中できないかもしれないと不安に襲われた。ダルビッシュもワールドシリーズ並の緊迫感と驚く。

その空気の中でも大谷翔平は豪快なバッティング練習をアメリカの観客に披露。バックスクリーンにある大型ビジョンを直撃する150メートル弾で野球本場の国の度肝を抜いた。

試合前には"腕組みポーズ"の名物男にして、メジャーのポストシーズン10本の本塁打記録を持つランディ・アロザレーナと大谷が記念撮影。WBCでのメキシコ戦は第1回大会以来。この日の始球式を務めた松坂大輔が先発し、6-1で退けた。あの年のメキシコは最終戦を前にディズニーランドに行きながら米国に勝利。日本戦に続くボブ・デービッドソンの大誤審に触発され、日本の"神風"となってくれた恩がある。

アトランタ五輪のサッカーで日本代表がブラジル代表を破ったマイアミ・オレンジボウルの跡地にできた球場「ローンデポ・パーク」。ここで侍ジャパンが起こすのはミラクルではない。日本の野球は世界最高峰にあることを刻みつける。

1(中)ヌートバー
2(右)近藤健介
3(投)大谷翔平
4(左)吉田正尚
5(三)村上宗隆
6(一)岡本和真
7(二)山田哲人
8(遊)源田壮亮
9(捕)中村悠平

驚いたのは7番にデスターシャではなく、山田哲人を起用したこと。侍ジャパンでトップの2本塁打を打つ牧ではなく、打率.200の山田を起用したのは意外。そして先発マスクを甲斐ではなく中村悠平。打率.600、オーストラリアでの活躍が光った。甲斐は日本ラウンドで10打数1安打の打率.100。

キャッチャーは野手の中でひとりだけファウルゾーンに居て他の8人とは違う方向を向く。ひとりだけ座る。ひとりだけマスクで顔を覆う。「扇の要」であり「グラウンドの監督」ではあるが、その存在をアピールするのは打撃。過去のWBCにおいても、里崎智也、城島健司、阿部慎之助、小林誠司はチームに貢献する打撃成績を残してきた。

今大会、圧倒的な優勝候補にも関わらず"死の組"プールDで1次ラウンド敗退したドミニカ共和国の唯一のアキレス腱が捕手だった。そして案の定、2枚キャッチャーのサンチェスもメヒアも大不振でチームの足を引っ張った。キャッチャーの打棒は勝敗を左右する。

試合前の円陣のペップトーク(短い激励のスピーチ)に清水コーチはダルビッシュを指名。「控えめに言って世界一のチーム」と高らかに宣言したとおり、どんな劣勢でも暗い雰囲気はなくナインは躍進する。侍ジャパンは言魂ジャパンでもある。

集まった観客は3万5933人。1次ラウンドのドミニカvs.プエルトリコ戦に次ぐ入り。ローンデポ・パークの収容人数は3万7446人で96%の満員御礼。全員がこの日を生涯、語り継ぐだろう。試合前の選手入場では大谷翔平がメキシコベンチに向かってアロザレーナの腕組みポーズ。ひと昔前なら挑発行為としてデッドボール食らいかねない。大谷だからこそ許され、メキシコ代表も笑顔で迎え入れた。この一瞬だけでも大谷翔平の凄さが凝縮されている。

1回表

先発は今年の1月に山本由伸とローンデポ・パークを訪れた佐々木朗希。過去4大会すべて準決勝に進出している侍ジャパンは、日本を代表するピッチャーを世界に披露してきた。第1回大会の上原浩治(韓国戦)、第2回大会の松坂大輔(アメリカ戦)、第3回の前田健太(プエルトリコ戦)、第4回大会の菅野智之(アメリカ戦)。その全投球が永劫に語り継がれる内容。栄誉ある歴史の継承をわずか21歳、本来なら大学3回生の若侍に託す。上原浩治と同じナイキのイエロー・グローブを着けた佐々木朗希。準々決勝のメキシコvs.プエルトリコ戦は髙橋宏斗と共に球場で観戦した。

日本中の期待を浴びた背番号14は、100マイル(160キロ)超えを連発。MLBの先発ピッチャーでも、これほど安定して3桁の球速が出る者は少ない。気合いが乗って球威も凄まじい。最速は初回先頭のランディ・アロザレーナを三振に打ち取った164キロ。佐々木朗希は無限の翼を持っている。いつか誰も届かない領域にまで羽ばたく。

2回表、フォークがスッポ抜けて制球が定まらない。気負いからコントロールが乱れ、甘いコースにボールがいく。本来の佐々木朗希は制球力お化けだが、6番ルイス・ウリアスの対戦では真ん中高めに入った161キロを弾き返され腹部に直撃。日本中がヒヤッとしたが、いつもの涼しい顔で続投し、2アウト一、二塁のピンチを切り抜ける。

強敵を撃破してファイナル4に勝ち上がってきたメキシコ打線も佐々木のジャイロフォーク(ジャイロ回転で通常のフォークより鋭く落ちる)を捉える。昨シーズン、佐々木が記録した173の奪三振のうち109の三振を奪ってきた決め球。宮崎合宿でスライダーを伝授したダルビッシュは「ストレートとフォークだけで抑えられる」と太鼓判を押していたが、そのジャイロフォークをバットに当ててくる。

第1回WBCでアメリカ代表と対戦した読売ジャイアンツの上原浩治が脅威に感じたのが、打撃陣が2巡目から見慣れないはずの球に順応してきたこと。この対応能力こそがメジャーリーガーの底力であり、WBCにおいて米国ラウンドで戦う難しさ。

4回表

4回表、2アウトを取ったあと4番ロウディ・テレス(ミルウォーキー・ブルワーズ)。昨年は1試合8打点の球団史記録も叩き出したスラッガー。侍ジャパンは前の打席に続いて三塁がガラ空きのオーバーシフト(極端な守備隊形)で対策。佐々木の伸びのある速球に対し、テレスは常にボールの上半分を叩く意識で打っていた。強引に引っ張らず、うまく上から叩いて守備シフトの裏をかくレフト前ヒット。メジャーのスラッガーに強振を諦めさせる佐々木朗希もすごいが、メキシコもなりふり構わない。1次ラウンドでは派手な野球を見せていたが、準々決勝以降、高度で繊細な野球をしている。こんな野球が見られるのもWBCの醍醐味。

続く5番アイザック・パレデス(タンパベイ・レイズ)はプエルトリコ戦で反撃の口火となるホームランを放った強打者。163キロのストレートをどん詰まりながらも三塁後方に落ちるテキサスヒット。並の打者ならサードフライになるところ、外野まで持っていく。メキシコ伝統の帽子「ソンブレロ」をかぶった観客も大騒ぎ。両軍のベンチは隣の会話も聞こえないだろう。

2アウト一、二塁の場面で迎えるは準々決勝のプエルトリコ戦で勝ち越しタイムリーを放った6番ルイス・ウリアス。1打席目に強烈なピッチャー返しで佐々木の腹部を襲ったバッターだ。初球のど真ん中のストレートはファウルに打ち損じるが、2球目に投じた渾身の145キロのジャイロフォークを捉える。レフトスタンド側のブルペンで山本由伸の球を受けていた鶴岡ブルペン捕手は、頭上を超えるボールが流れ星に見えたという。均衡を破る先制のスリーランホームラン。大谷翔平は三塁側のダグアウトで「OK、OK」と力強い眼力でうなずく。ロッテの監督で投手コーチの吉井理人は「3点は覚悟して佐々木をマウンドに上げた」と言うが、韓国戦と同じく3点を追いかける形となった。

源田壮亮がマウンドに駆け寄り励ますが、佐々木は人目も憚らず涙を拭う。21歳。本来なら大学生。それが世界のトッププレーヤーを相手に正面突破で挑んでいる。WBCのマウンドは華やかなスポットライトを浴びるが、同時に世界で最も残酷な処刑台でもある。

メキシコ先発のパブリック・サンドバルはスライダーとチェンジアップを決め球にし、打者のタイミングを外す技術、ボール球を振らせる技術に長けている。初回の大谷翔平の第1打席の2球目はヌートバーや近藤には投げなかったチェンジアップを投じる。エンゼルスでは左打者にチェンジアップを投げないので意表をつかれた。侍ジャパンも4回は近藤健介や吉田正尚の安打で2アウト一、三塁の得点圏にランナーを進めるが、村上宗隆が見逃しの三振。

大谷は栗山監督から「(サンドバルから)何点くらい取れそうか?」を試合前に訊かれ「3点くらい」と返したが、予想を上回る好投。アメリカ打線を3回1失点に抑えた好調を維持し、四球ゼロで完璧なピッチングを進める。

5回裏

ローンデポ・パークは「ピッチャーズパーク」と言われるように投手有利。ホームから左翼まで約105mあり、東京ドームより5mも深い。ドミニカの長距離砲マニー・マチャドも1次ラウンドで複数回ホームランを阻まれた。右打者にとって伏魔殿となる。

5回裏、岡本和真がレフトに大きな飛球を打つが、角度がつきすぎてフェンスギリギリ。それでもホームランになる当たりを左翼手のアロザレーナがジャンプ。黒のウィルソン製のグラブが伸びると日本の反撃の芽を摘むホームランキャッチ。前回大会、サンディエゴのぺトコ・パークで行われたアメリカ対ドミニカ戦で、米国の右翼手アダム・ジョーンズがマニー・マチャドの本塁打を阻止した「ザ・キャッチ」が蘇る。あまりの見事さに打ったマチャドがヘルメットを脱帽して敬意を示したシーンはWBCに残るハイライト。

ドヤ顔で不動のアロザレーナに代わり、脱帽のお礼をしたサンドバルが腕組みポーズ。日本にはショックの大きい、失われたホームラン。20歳で夜のカリブ海を8時間かけてカヤックで渡り、メキシコに亡命したキューバ人のアロザレーナは第二の母国に恩を返そうとしている。

ホームランを強奪したばかりが、試合中にも関わらずスタンドのファンにサイン会を開催する始末。とんでもないエンターテイナーでありプロフェッショナル。2013年WBCのプエルトリコーベネズエラ戦でもプエルトリコ代表のエディ・ロザリオ外野手が試合中に観客からガムのようなものをもらう場面や、外野席で遊んでいたファンのビーチボールが落ちてくる場面があったが、中南米のノリは驚異。アロザレーナは試合前もスパイクを履かずメキシコのウエスタン・ブーツで守備練習。ここまでは1次ラウンドのアメリカ戦と同じだが、今回はメキシコのド派手な帽子「ソンブレロ」をかぶってノックを受け観客を楽しませた。

その後も何度もレフトにボールが飛び、アロザレーナのグラブに吸い込まれるエリア56を形成。5回2アウト満塁で近藤健介が放った飛球をキャッチし、正面を向いたまま背後の観客にボールを投げ入れるパフォーマンス。前回大会で日本の夢を乗せた筒香嘉智のライトフライを観客席に投げ入れたアンドリュー・マカッチェンと同じ仕草だった。6回裏は先頭の大谷翔平がアロザレーナの前にポトリと落ちるヒットで出塁し、塁上から「カモーン!」と両手を挙げジャパンを煽る。サンドバルからあとを継いだ2番手のホセ・ウルキーディ(ヒューストン・アストロズ )を攻め、5回に続いて2アウト満塁のチャンスを作るが源田の打球はまたしても背番号56のブラックホールに吸い込まれる。あまりに出来過ぎたシナリオにアロザレーナも苦笑い。やさしく下手投げでレフトスタンドのファンにボールを投げ入れる。

今大会のWBCでメキシコ代表はスタメン10人のうち7人がアメリカとキューバ出身。メキシコ出身は二遊間のウリアス(二塁)、パレデス(遊撃)、メネセス(一塁)の3人だけ。メキシコの母国語であるスペイン語が話せない選手もいるから通訳も必要だ。そんな状況下でアロザレーナの腕組みポーズが結束帯となり、異邦人たちをアミーゴ(仲間)にした。日本語がしゃべれないヌートバーも、ペッパーミルによって日本と繋がったように、パフォーマンスは違う国籍同士を乳化させる。アロザレーナもヌートバーも代表の1番バッター。国の出身ではない異邦人がチームを一つにまとめた。

6回表

完全に流れがタコスの国に行きかけるところを食い止めたのが5回表から登板した第二先発の山本由伸。ブルペン捕手の鶴岡慎也とウォームアップしている4回にホームランボールが飛んでくるのが見えた。この空気を変えてやる。山本由伸は気合い満ちていた。

伝説の一歩を踏み出したのがプロ2年目の2018年。先発ではなくセットアッパーだった。日本プロ野球史上初「10代でのシーズン30ホールドポイント」を達成。3年目から先発に転向し、最優秀防御率のタイトルを獲得するが、リリーフとしても一流。

栗山監督は試合前、難しい決断を迫られていた。準決勝で山本由伸を投げさせるのか?大方の予想は決勝の先発だった。ここは今大会でピギーバックを務めた今永昇太を継投する手もあった。しかし、それで負けたら「山本を使っておけばよかった」と後悔が残る。本来は山本を残しておきたいところだが、栗山監督は勝負に出た。そして順番。2枚看板を使うにしても山本、佐々木の順番もありえた。しかし、WBCで最も難しいのが第二先発だと理解していた栗山監督は佐々木を先発にし、ピギーバックを山本に任せることにした。

その決断は見事に的中。強力メキシコ打線に臆することなく、ストレートと落ちる球を上下、コーナーに投げ分け、5、6、7回を圧巻のノーヒットで切り抜ける。戸郷翔征や今永昇太にはリリーフの入り方を細かく指南した厚澤和幸コーチだが、山本には何も言う必要がなかった。

7回表

野球のベースとベースの塁間は27.431メートル。一塁ランナーはサバンナの野生動物のように虎視眈々と二塁ベースを盗もうとし、ピッチャーやキャッチャーは盗っ人の侵入を防ごうとする。わずか4秒にも満たない攻防が野球の歴史の中で観客を魅了してきた。

7回表1アウト一塁。フルカウントから8番アレク・トーマスはフォークに空振り三振。四球で出塁していた遊撃手アラン・トレホ(コロラド・ロッキーズ)が二塁ベースを盗もうと走り出す。そうはさせんと甲斐キャノン発動。ローンデポ・パークのアンツーカー(人工の土)は日本の球場に比べて硬く、スライディングがスピードに乗る。二塁ベースの源田壮亮が「見たことがないスライディング」と驚いたトレホは、体を捻ったヘッドスライディングでタッグ(タッチ)をかわす。魔術師と呼ばれるプエルトリコ代表のハビアー・バエスが前回大会の準決勝で見せたスライディング。

対する源田はワンバンの難しい球をキャッチ。これまた魔術師ハビアー・バエスを彷彿とさせる高速タッチ。世界最高峰の攻防。そしてベースから3mほど離れたところにいる二塁アンパイアが下した判定はセーフ。

しかし、源田がチャレンジをアピールし、栗山監督がリプレー検証をリクエスト。ストライク、ボールの判断を含め、野球では審判が1試合に400回から500回の判定を下す。正しいジャッジが当たり前、誤審をすれば叩かれる厳しい職業だ。前回大会ではスライディングとタッグ(タッチ)の攻防を巡ってミスジャッジが目立ったが、今大会から改善。長い長い検証の末、源田のチャレンジが成功しアウト。ダグアウトの大谷は「よっしゃ、やってやるぞ」と言わんばかりに笑顔で右腕をグルグル回す。わずか数ミリの差で両チームの天国と地獄が揺れ動いた。

7回裏

7回裏の攻撃。ここまで安打の数は両チームとも同じ5。しかし、スコアは3-0。4回のスリーランが大きくのしかかる。国際大会において試合を動かすのはホームラン。先頭は甲斐拓也。本来ならここで山川穂高か大城卓三の代打を送る場面。城石コーチも進言したが、栗山監督は代えなかった。甲斐は空振り三振に倒れるが、この決断が劇的なドラマを生む。

ヌートバーもレフトフライに終わるが、続く近藤健介が2ストライクと追い込まれながらも難しい低めのカーブをライト前に運ぶ。「野球は2アウトから」という格言を実行する出塁。ダグアウトも諦めムードはなく1点を獲りに行くぞという雰囲気があった。日本の最多打点は吉田正尚の10だが、得点(ホームに生還した数)のトップは近藤健介の8。吉田正尚の4得点の倍。それだけチャンスメークをしている証。大谷や吉田がタイムリーやホームランを打つとき、いつも近藤が塁にいた。

メキシコはピッチャーをジョジョ・ロメロ(セントルイス・カージナルス)に交代。アメリカ、イギリス、プエルトリコの3試合に登板し、チームの勝利に貢献しているセットアッパー。大谷との勝負に打って出る。

大谷は近藤に続いて後ろに繋ぐことを考えて打席に立つ。ボール球は振らずに見逃す。後ろに繋げはなんとかしてくれると信じた。この打席、1球もバットを振ることなくフォアボール。己の信念をどこまでも貫く大谷は雄叫びをあげる。

7回裏2アウト一、二塁。ここで四番・吉田正尚。18打数8安打の打率.444。この日も2本のヒットを打っている。3月7日の古巣オリックスとの強化試合から三振ゼロという宇宙人なみの集中力とバットコントール。大谷翔平が特大の打球を放ち、ベンチ全員が大はしゃぎするなか一人だけ顔色ひとつ変えず自分の仕事をしに打席に向かう。自身がホームランを打ってもバットは放り投げずに静かに置く。

不動心

それが吉田正尚の最大の武器だった。代名詞の「マッチョ」は肉体ではなく、誰にも揺さぶられない強靭な心。得点圏だが、アウトになれば希望が絶望に変わる。その瞬間、終戦。吉田はネクストバッターズサークルでは滑り止めのスプレーは使わない。試合前、アンダーアーマー社の白木のバットに茶色いパインタール(松ヤニ)を塗って挑む。その相棒を握りしめ、これまでになく冷静にバッターボックスに向かった。ルーティンである2回バットを強振。極限の集中によって球場の声は何も聞こえない。

ロメロとバーンズのバッテリーは策士。大谷とはストレートとスライダーの2球種で勝負し、同じ左打者の吉田にはシュートとチェンジアップを中心に組み立てる。前の打者との勝負を参考にさせない。カウント2-2。吉田は追い込まれたとき、相手のウイニングショットを狙う。ここまでサンドバルとウルキーディが日本を0点に抑え込んできた球種。ロメロが投じたのは内角低めへの完璧な138キロのチェンジアップ。先ほど空振りした球を吉田正尚はたった1球で解剖し、右肩が開かないよう我慢。ボールの内側を叩くアッパーカットで身体がピョンと跳ねる。吉田自身は打った瞬間、ファウルだと思った。

しかし、ボールは切れずにグングン伸びる。白球の行方はファウルポール直撃。自身も「シビれた」と語る同点スリーラン。一瞬、地球が止まった。

WBCの直前、メジャーリーガーの速い球に対応するためフォームを改造。わずかに足の上げ幅を小さくし、動きを少なくした。そして、ぶっつけ本番の大舞台で最大の結果を生む。メジャー1年目にして代表入りを押し通した大和魂に野球の神様が微笑んだ。

ダグアウトから飛び出した選手は大ジャンプ、バンザイの嵐。その後ろで佐々木朗希が地面に思い切り帽子を叩きつける。マウンドでも見せたことのない形相。すぐにダグアウトの裏に行き号泣した。もし敗戦投手になっていたら、若き侍の野球人生はどうなっただろう。吉田のホームランは"Shot heard 'round the world"、「その一打が世界を変えた」と呼ぶにふさわしい一撃。

WBC新記録を樹立する13打点。開幕前、打点が何より重要と語った村上宗隆に侍ジャパンの四番とは何かを示してみせた。

8回表

畳みかけたい場面で村上宗隆がサードへのファウルフライに倒れる。村上クラスになって"しまう"と、調子が悪ければ簡単に代打を送り、スタメンから外せるバッターではない。たとえ不調であっても試合に出続けなければいけない。そこで打てなければ当然、厳しい批判を浴びる。第2回大会のイチローがそうだった。選ばれし者の戦いは栄誉でもあり地獄でもある。才能とは残酷なもの。村上は自身で築いた茨の道、宿命と勝負しなければならない。

8回表も山本由伸が投げるが、佐々木朗希がつかまったように、メキシコの打者と2巡目の対決。先頭の9番オースティン・バーンズは空振り三振。これで山本は今大会、侍ジャパン投手陣で最多の奪三振12を記録。2年連続の沢村賞は伊達ではない。しかし、恐怖のサイン会野郎・アロザレーナは近藤健介の頭上を越えるツーベースヒット。今大会最多の6本目の二塁打。お約束の腕組みポーズを披露すると、ダグアウトも腕組みポーズで応える。お祭り男が目覚めればメキシコ打線が着火してしまうのは火を見るより明らか。

今日ノーヒットの上位打線が噴火し、2番アレックス・バデューゴにはシュート回転したストレートを左中間に運ばれタイムリーツーベース。4-3とあっさり突き放される。元オリックスのチームメイトで3番のジョーイ・メネセスとの対戦では「メヒコ」の大合唱に間合いを嫌ったのか、二塁牽制で一呼吸。すかさず場内大ブーイング。日本プロ野球の圧倒的ナンバーワン投手が飲まれようとしている。直後に投じた外角へのフォームが落ちずレフトに運ばれ、1アウト二、三塁。この空気に勝たなければWBCの優勝はない。

ここでバックアップ担当で"8回の男"湯浅京己に交代。「緊張しすぎて記憶がない」と語る状況。メキシコ打線は佐々木朗希のフォークに対応している。4番のロウディ・テレスはフォークで空振り三振を奪うが、5番アイザック・パレデスは佐々木朗希から2安打。山本由伸のフォークも当てている。興奮状態のベンジー・ヒル監督は顔を真っ赤に紅潮させ、手を叩いてダグアウトから声援。パレデスは逆にクールな表情。1ストライク1ボールから高めに浮くスライダーは狙い球が外れたのか、パレデスが土を蹴り上げる。イライラしたフリをした心理戦かもしれない。そしてバッティング・カウントからの4球目。低めへ発射されたフォークをバルデスが捉えた。見逃せばボール。超一流の好勝負はメキシコに軍配が上がり、ボールは吉田正尚の元へ転がる。代走のジャレン・デュランが還って5-3。二塁ランナーのメネセスも三塁を蹴る。追加点を奪われたらチェックメイト。

ここで吉田が見事なバックホーム。青山学院大学の日本代表合宿や社会人野球との合同練習でホームへの返球を鍛えた。首を少し傾けて投げることで腕やヒジがスムーズに出る送球をマスター。派手さはないが、第2回WBCの決勝戦で内川聖一が韓国のコ・ヨンミンの二塁打を刺した送球と同じパーフェクト・スロー。終盤に傷口が広がると挽回する時間がなくなり、致命傷になる。8回の3点差と序盤の3点差は数字ではわからない重みがある。この補殺がなければ完全に万事休す。吉田正尚は攻守の両方で侍ジャパンを救った。

8回裏

8回裏、メキシコは投手をヘスス・クルーズ(フィラデルフィア・フィリーズ)に交代。1次ラウンドの初戦(対コロンビア)では延長タイブレークに登場し1安打を浴びて負け投手、イギリス戦では8回に登場し三者凡退に抑えている。

5-3と2点差の中、先頭打者はボールがよく見えており絶好調の岡本和真。初球、左肘にデッドボールを受けて出塁したところで、第1の栗山マジック。このあとも打席が回る可能性のある岡本に代走・中野拓夢。侍ジャパンにとっては賭けになるが、延長戦に入る前に試合を決めるという意思表示。

ノーアウト一塁で山田哲人。初球は大きく外れて捕手のオースティン・バーンズがマウンドに駆け寄る。2球目はフォーシームがほぼ真ん中に来るが、ボールの下を振って空振り。メジャーリーガーの球威は伊達ではない。カウント1-1から続けてフォーシームが来るが、ボールの上を叩きレフト前ヒット。アロザレーナの前に転がし一塁でペッパーミル。気持ちは負けていない。山田は6年前の前回大会で準決勝敗退した悔しさを知る唯一の野手。成功は過去形、失敗は未来形。終盤でこそ、その経験が生きる。

ノーアウト一、二塁の絶好機に源田壮亮。もし野球にバントがなく、ホームランの数や飛距離を競うスポーツであれば日本は欧米に敵わないだろう。しかし、バッターにはボールを「転がす」という選択肢があり、日本の野球が世界でトップクラスの要因であることは間違いない。

メキシコの内野陣は前進守備。ヘスス・クルーズの初球は、またしてもボールが大きく外れる。今度はベンジー・ヒル監督がマウンドへ走る。大谷翔平もダグアウトでバッティング・グローブを持ってダッシュの往復。まだ出番は先だが居ても立っても居られない。凄まじい緊張感がローンデポ・パークを支配する。

2球目もボールが高めに浮くが、ここでメキシコの野手陣はブルドッグ(投手がモーションした瞬間、一塁手と三塁手が本塁方向へダッシュするシフト)を実行。ショートが三塁を、セカンドが一塁をカバーするため、二塁がガラ空きになる。ピッチャーの頭を越えればヒットになってしまう"攻めの守備隊形"。このメキシコのプレッシャーに動揺したのか、源田はストレートを2球連続でファウルしてしまう。逆に2-2と追い込まれた。

ヒッティングの選択もあるなか、栗山監督はスリーバントのサイン。ここでブレてはいけない。源田も「強い打球でいいから前に転がしてランナーに任せよう」と開き直った。真ん中に来たストレートをZETTのバットにうまく当て、一塁に転がし送りバント成功。1アウト二、三塁のチャンスを作った。

野球は不思議な球技。バッターはアウトになってもヒーローになることがある。

犠牲フライ

2013年の台湾との伝説の一戦、延長10回表に中田翔がレフトに決勝点となるフライを放ったときは優勝したような歓喜に包まれ、英雄視された。犠飛は野球というスポーツの特殊性と寛容性を象徴する。サッカーやバスケットは地面に根ざした「ゴール」に向かって突き進むが、野球は天高く「空」を目指して打つ。「月に向かって打て」という格言が残されているほど、空中戦こそベースボールの真髄。

4試合で423球を受けた9番の甲斐拓也に打順が回ると代打・山川穂高。7回裏の攻撃で甲斐に打順が回ったとき、城石コーチは栗山監督に代打を進言したが、「甲斐でいく」と代えなかった。アグレッシブに攻める栗山監督にしては珍しい決断だが、栗山監督はもう一度、甲斐に打順が回ってくると踏んだ。このチョイスによって山川穂高という強力な切り札を残していた。

特技は書道とピアノ。沖縄県那覇市に生まれた愛称「アグー」は、繊細さとパワフルを兼ね備えている。中学野球のクラブチームには1学年下に大城卓三がいた。沖縄県立中部商業高等学校で野球を辞めるつもりだったが富士大学の野球部監督の目に留まり進学。プロに入ってからは9年で3度のホームラン王に輝いている。

野球ファンはすぐに「ここは最低でも外野フライ」と簡単に言ってしまうが、外野フライは打者が練習していない技術のひとつ。バッターは基本的にヒットかホームランを打つモチベーションで打席に向かう。それを覆して実践で犠牲フライを打つのは難しい。プロ野球において犠飛で得点が入る場面で外野フライになるのは10%前後。わずか1割しか犠牲フライは生まれない。山川もプロ9年で528打席に対し、犠牲フライは14回。確率は2%。1次ラウンドのチェコ戦で9回に犠飛を打っているが、7点リードしたプレッシャーのない場面だった。しかも今はスタメンではなく慣れない代打。

山川は真ん中高めのフォーシームに対してバットを被せ気味に振り、とにかく前に飛ばすことを意識。この場面でピンチヒッターを任されたからには1球で仕留めなければならない。その心構えが犠飛を生んだ。侍ジャパンを苦しめたアロザレーナにお返しと言わんばかりにボールを飛ばす。野球はスタメンの力で勝負が決まるのではなく、ベンチで出番を待つ想いの力も加えた足し算。ダグアウト前では大谷翔平が真っ先にアグーを出迎えた。

2アウト二塁でメキシコは投手をヘラルド・レイエスに替える。大谷の同僚で、ここまで2試合に登板し無失点。ヌートバーが四球を選んで出塁するが、近藤健介は際どいコースを見逃し三振。ダグアウトで佐々木朗希が修道院のシスターのように両手を合わせて祈っていたが、勝負は最終回に持ち越された。

9回表

もう1点もやれない9回表。マウンドに大勢が上がり、キャッチャーは大城卓三。巨人のバッテリーが実現する。沖縄県那覇市出身の30歳、琉球の風に乗ってやってきた大城は、前回大会のラッキーボーイで巨人の先輩・小林誠司と正捕手争いを制した島人の宝。

今回、栗山監督はキャッチャーを3パターン用意した。守りが最強である甲斐拓也。投打のバランスが取れる中村悠平。そして打撃に信頼感のある大城卓三。今大会では主力捕手は甲斐と中村。大城の役割は試合後半、劣勢での代打、ブルペンでリリーフ陣の球を受けること。WBC開幕前、キャッチャー3人と村田善則バッテリーコーチと「捕手会」という名の食事会を開き、役割を明確にした。

巨人の先輩・阿部慎之助も第2回大会では城島健司のサポートに徹したが、この支えが優勝に大きく貢献する。韓国戦、オーストラリア戦では打席に立ち凡退に終わったが、今回は守備のみ。

大勢と大城を救ったのが、やはり源田壮亮。1アウト走者なしの場面で7番アラン・トレホのフライを背面捕球。ボールを見ずに長年の経験で培った勘で追う必殺「GPSキャッチ」。ショートは一塁手、二塁手、三塁手のような数字ではなく「遊撃手」と書くが、源田の守備は自由あふれる遊軍に相応しい。野球には守備位置において、どれだけ失点を防いだかをもとに守備を評価するDRS(Defensive Runs Saved)という指標がある。平均的な野手は0となり、優秀な者は+10や+20と評価される。MLBのショートストップでトップは元プエルトリコ代表のカルロス・コレアの+23。対して源田はNPBで+37という異常なほど失点を防いでいる遊撃手。それも、この背面キャッチを見れば納得せざるをえない世界でも最高クラスの守備選手である。

救われた大勢の球はロデオのように乱れ、大城の構えたミットに行かずデッドボール。ここまでコントロールを乱す大勢を見たことがない。大城もポロポロお手玉するほどの暴れ馬はメキシコのオースティン・バーンズもロデオ・ドライブできずフォークを空振り三振。見事0点に抑えた。この日、3人のキャッチャーすべてが出場。「全進野球」の完成は最終回のドラマに続いていく。

9回裏

最終フレームの9回裏、ピッチャーはジョバニー・ガジェゴス。ヌートバーの同僚で昨季はカージナルスで14セーブ。準々決勝のプエルトリコ戦も最終回を締めたメキシコの守護神。

日本の背番号16は「塁に出てくる」と口にしてバッターボックスに向かった。プロ野球では「塁に出る」と言った場合、フォアボールを指すことが多い。今大会の大谷は大会最多の8四球を選んでいる。7回に吉田正尚につないだときもボール球は振らないと決めていた。ガジェゴスの第1球は外角に外れる140キロのチェンジアップ。ガジェゴスはWBC3試合で初球はフォーシームかスライダーしか投げていない。大谷とはMLBも含めて初対戦だったが、あえて普段のルーティンではなく、相手の意表をつく球でストライクを取ろうと考えた。

しかし大谷は待つのではなく強振してきた。昨季のメジャーで大谷翔平が初球を振った割合は41.6%。

わずかにグリップエンドを余らせてバットを短く持つ。一発狙いではなく、確実に後ろにつなぐ。吉田への信頼感の証。そして長いリーチで捉えた打球は右中間を抜ける。ヘルメットを飛ばしながらの激走。

野球は球場で見れば「足」の球技だとわかる。攻撃はホームに生還するため必死で走り、守備陣は球を追いかける。チームに勢いを与えるのはダイヤモンドを走る姿。大谷翔平のインスタグラムのアイコンも走塁の姿である。

WBCが始まる前から何度も口にした待望のヒリヒリする試合。6回にヒットで出たときと同じく両手を挙げ侍ジャパンを活気づける咆哮。ボディビルダーのようなポーズを取り、ダウアウトを煽る。WBCでイチローはベース上でうれしさを隠し「こんなこと何でもないよ」とクールに振る舞うことで相手の戦意を喪失させた。大谷はイチローと対照的なやり方でチームを勝利に先導する。この大谷翔平のツーベースは第1回大会の準決勝・韓国戦で気迫のヘッドスライディングで日本を鼓舞した松中信彦がオーバーラップした。

ここで四番の吉田正尚。城石憲之コーチがベンチ裏に向かった。ランナーが2人出たら送りバントをしてもらうと牧原大成に伝える。しかし、試合に出場し続ける源田ですらスリーバントする状況。いきなり代打出ても成功の確率は低い。しかも野球で最難関の送りバントが走者一、二塁。タッチの必要がなく、スクイズより難しい。城石コーチからバントの準備を伝えられたとき、牧原は極度の緊張に顔を強張らせ「本当に無理です」と謝った。前日のプエルトリコも9回にガジェゴスから送りバントを図って失敗している。ベンチに戻ると栗山監督が「マキ、大丈夫か?」と尋ねる。いつもは監督を迷わせないため、大袈裟に明るく返事する城石コーチが少し間を置いてから「はい」と静かに返事した。その一瞬の間で栗山監督はすべてを察する。

「ムネに任せよう」

凡退すれば確実に日本中から非難轟々の嵐。仮に牧原で失敗しても全日本人が納得する。リスクを考えるなら交代。栗山監督の最大のギャンブル、ヘラクレスの選択だった。

吉田がノースリーになると栗山監督が「待て」のサインを送る。そして四球を選ぶと、侍ジャパンの四番は右手に持ったバットを下ろし、左手の人差し指を村上宗隆に向けた。

「お前が決めろ」

吉田に代走、一塁を得点圏にしてしまうシューティングスター・周東佑京。これで15人目の選手。牧原以外、野手全員を使い切る総力戦。8回の岡本の代走に中野を送ったことでジョーカーが残っていた。周東はキャンプ中から打撃は好調だった。スタメンで使うことも考えたが、ここ一番の勝負所で使いたい。周東もそれをわかっているから、その時を待っていた。唇を噛みながらじっと耐えて待つ日々。そしてついに、最速のカードを切る瞬間が訪れた。

全員が整えてくれたお膳立てに登場するのは不振の村上宗隆。しかし、結果がどうであれシビれる場面で回ってくるのがスーパースターの証。清水雅治コーチが「これからの日本代表を背負うのは村上」と言うのは、まさにこのこと。

吉田の打席でガジェゴスの球筋がうわずっているところを栗山監督は見逃さなかった。大谷や周東など俊足のランナーが塁にいることで相手ピッチャーにプレッシャーがかかり、投げるコースが甘くなる。これなら不調の村上でも外野フライは打てる。大谷がタッチアップで三塁に進めば、中野の打席で周東に盗塁のサインを出す。そうなれば1アウト二、三塁。

一塁ベースコーチの清水雅治は、この短時間に3つのことを周東に伝えた。絶対にライナーで飛び出さないこと、大谷がアイコンタクトで三盗する可能性があるのでダブルスチールを決めること。そして最後は村上が長打を打ちそうなので、ホームベースまで駆け抜けること。昨季、日本人ホームラン記録となる56号を最終打席で放った奇跡を見て、ここで打つ予感がしていた。

栗山監督の伝令を城石コーチが村上に伝える。

「思いきり打ってこい」

アメリカは勇気ある者に自由の女神がほほ笑む。初球をファウルしたあとの2球目。ワンバウンドする縦スライダーをしっかり見送った。力みがちな村上なら釣られて振ってしまうところ。これまでの打席とは明らかに違った。ガジェゴスも険しい表情に変わる。そして運命の3球目。

蘇生した断崖絶壁の村神様は、1ストライク1ボールからど真ん中の151キロのフォーシームを引っ張らずに流した。準々決勝のイタリア戦で放った左中間への二塁打とまったく同じ軌道の再現ドラマ。あのときも二塁には大谷がいた。渾身のクラッチヒットはミサイルのようにマイアミの夜空を斬り裂きフェンス直撃。

大谷がサードベースを蹴ると、走攻伝説の申し子・周東佑京が追い抜かんばかりにやってくる。

三塁ベースコーチ白井一幸がグルグル手を回す。練習から村上の打球を見ていた周東は打った瞬間、抜けると確信。

スパイクがローンデポ・パークの土を蹴り上げる。地面を掴む感覚を重要視する周東にとって、波型の金具歯のアディダス製スパイクは「何も履いてないように感じる」最高の相棒。WBCに合わせ、爪先には日の丸の国旗、JAPANの文字はゴールド、そして背番号9を刻印。

野球人生で最も速く走っていると感じた。1個1個のベースが近い。ダイヤモンドの中に自分しかいないような無音の世界。怪速を飛ばし、一塁からホームベースまでわずか10.3秒(三塁からホームまでは3.08秒)。原付の法定速度より速い時速33・4キロで大谷の0.8秒後に生還。WBCに刻まれる足攻伝説を残した。

2009年以来の決勝進出。「こんなゲームができるのは人生でもそうはない。本当に楽しいゲームだった」と大谷。

日本中のヘイトSNSを吹き飛ばした令和の三冠王。待たせて待たせて最後に登場する勧善懲悪ドラマの主人公のようなシナリオ。23歳の若者はこの一打で伝説を創り、日本の野球史に残るゲーターレードシャワーを浴びた。一打で伝説になるのが野球。一瞬が永遠に変わる。

村上のヒッティングについて指揮官は「なにか物語が生まれないと優勝は難しいと感じた。根拠はないが自分の中でそう思った」。WBCの歴史において侍ジャパン初のサヨナラ勝ち。試合前に栗山監督はLINEを送った。「ここで4番を外れることには意味がある。ムネが世界一のバッターになれると信じている。そこへ持っていくために今がある」

大谷翔平を二刀流に挑戦させるヘラクレスの選択から10年経っても栗山英樹は変わらなかった。「誰も歩いたことのない道を歩いて欲しい」と説得した栗山監督自身が誰も選択しない采配をとった。

このメキシコ戦は世界中の注目を集め、1980年のワールドシリーズを超える6100万人以上が見たと言われる。野球の母国アメリカが絡まない一戦は、史上最も視聴者の多い野球中継となった。

 

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