
全国高校野球選手権大会の開会式。代表49校が、ひとつの球場に、ひとつのルールに従って歩みを進める。全員が胸を張り、決められたテンポで、誰かに見られていることを意識しながら、誰かに見られていることなど関係ないかのように進む。この時間、この場所で、夏が歩きはじめる。

球児たちの顔には、まだゲームの表情はない。むしろ、どこか遠くを見ているような、日常とは異なる磁場に投げ込まれた者の表情。緊張というには静かすぎて、期待というには鋭すぎる。それは「開会式」という儀式だけが許す、一瞬の浮遊かもしれない。

内野席には、家族がいる。スタンドには、地元の応援団がいる。吹奏楽部が、チアリーダーが、OBたちが、それぞれの時間とお金と気持ちをかけて、この舞台にやってきている。その視線のなかを、球児たちはひとりずつの足で歩いていく。

この式典には勝者がいない。スコアもない。記録も残らない。ただ歩くだけである。ただそれだけのために、全員がユニフォームを着て、スパイクを履き、列をなして甲子園の土を踏む。光を背負って歩く。夏を背負って、ただ歩く。
開会式に勝者も敗者もいない。いや、甲子園の土を踏む全員が、勝者である。

ここにたどり着くまでにかかった時間、費やされた練習、交わされた言葉。すべてを背負って、前へと足を運ぶ。それが「開幕式」という風景。
8月5日、火曜日。夏の甲子園が、また始まる。
開幕試合

6月3日に亡くなられた長嶋茂雄さんは、WBCの監督を務めた栗山英樹さんに言った。
「高校野球をとにかく守りなさい」
昨年、開場100周年を無事に迎えた甲子園球場は、2005年の夏、101年目の歩みを刻み始めた。

2025年、開幕式が16時開始になり、夏の甲子園の開幕試合は17時30分のプレイボールとなった。今年から球審も白いシューズを履き、球審、塁審とも白い帽子を着用。野球の風景は、昔より早い歩みで変化している。
しかし、変わらないものもある。
その試合には、他のどの試合にもない空気がある。スコアボードの数字はまだゼロで、土の色は新しい。
甲子園の開幕試合。夏の大会の最初のゲームだ。

開会式が終わり、球審がマスクをかぶって「プレイボール」と言ったとき、その瞬間からこの大会は動き始める。球場全体が息を止めて、何かが始まるのを待っている。そんな張りつめた時間。

出場する両校にとって、開幕戦はとても特別なものになる。誰よりも早く、甲子園のマウンドに立ち、誰よりも早くバッターボックスに入る。ベンチにいる選手たちも、アルプススタンドに並ぶ応援団も、自分たちが「この夏の最初の一歩」だということを理解している。
試合はいつも通りに進んでいく。投手は腕を振り、打者はバットを構える。凡打もあれば、エラーもある。グラウンドには暑さと緊張が渦を巻いていて、それでもスコアボードには淡々と数字が並ぶ。

観客席にはまだ空席も目立つ。全国から人が集まるのはもう少し後だ。それでもこの試合には、未来のすべてが詰まっている。このゲームが終わったあとも、何十試合と続いていく大会の、最初の一球、最初の球音、最初の得点、最初の歓声と、最初の涙。

試合が終わると、勝者の校歌が流れる。与えられるのは栄光ではなく「次の試合」という試練。敗者はバスに乗って、ふたたび地元へ帰っていく。記録には「1回戦敗退」とだけ残る。
その物語は、すぐに次の試合に上書きされる。だが、誰かが必ず覚えているはずだ。あの日、甲子園の土の上に、夏の始まりが確かにあったことを。
八月のカクテル光線

グラウンドに立つ高校球児の影が、少しずつ伸びていく。最初はうっすらと足元に溶け込むようだった影が、いつの間にかくっきりと土の上に刻まれている。八月の陽はまだ高く、じっとりとした熱気がスタンドを包む中で、球場はゆっくりと変化を始める。
甲子園の空が、蒼から群青へと色を濃くしていく時間帯。観客の誰もが、その変化を無意識に感じ取っている。その移ろいが一つの儀式のように見えるのは、やはりあの光があるからだ。
カクテル光線。
人工照明が放つ、白くて強くて、どこか冷たい、それでいて、やさしい光。

18時半ごろ、最初の一灯が点灯される。
それは、昼と夜の境界が目の前に現れた証であり、試合がクライマックスに向かっていく無言の合図でもある。
カクテル光線は、球場を現実から切り離す装置だ。昼の延長でも、夜の始まりでもない。あの光に照らされた瞬間、甲子園は別の世界になる。
選手の表情が浮かび上がる。汗に濡れたユニフォームが、照明に反射して輝く。白球が宙を走るたびに、観客の目は一瞬たりともそれを逃さない。

照明の下で見る野球は、どこか夢に似ている。あまりにも鮮明すぎて、現実味を失う。打球の音、歓声、応援歌、すべてが光によって強調され、輪郭を失っていく。
観る者はその光の中で、ただ見つめる。点が入る、エラーが出る、歓喜と絶望が交錯する。そのすべてが、あの異空間の中で起きる。だからこそ、記憶に焼き付く。
あの日、あの試合、あのカクテル光線の下で起きた一瞬を、野球ファンは語り継ぐ。

照明塔の灯が完全に闇を迎え入れるとき、そこに「日常」はない。甲子園だけが、野球という物語の中で、光に包まれ、静かに燃えている。
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