高校野球の春季大会

3月の 選抜(センバツ)高校野球が終わると、4月に各都道府県で春季大会が始まる。夏の甲子園の出場には直接、影響しない。ベスト8に進んだ高校が、夏の地方大会のシード権が得られる。
そんな晩春の風が吹くグラウンドに、本当の球春がやってくる。3月のセンバツは2年生と3年生だけのチーム。冬を乗り越えた者たちの、冬の延長戦。新入生が加わる春季大会が本当のチームの漕ぎ出し。新チームのお披露目となる。

まだ中学校を卒業したばかりの1年生が、ぎこちない動作で先輩を手伝う。ベンチやグラウンドに新しい風が吹く。センバツが「始まりかけの物語」で、春季大会は「始まりの物語」。
まだ少し肌寒い朝、金属バットの乾いた音が響き、白球は冷たい空を切り裂く。観客席はまばら。

春季大会は、勝っても新聞に大きくは載らない。地方のスポーツ欄の片隅に、簡潔なスコアと校名だけが並ぶ。でも、高校球児にとっては違う。勝てば自信になる。負ければ悔しさが血となる。結果は夏につながっている。
シード権を手に入れるかどうか。それだけで、夏の組み合わせが大きく変わる。強豪と初戦でぶつかるか、回避できるか。ちいさな春の勝利が、大きな夏の夢を動かす。
春の白球には、夏の匂いが混ざっている。まだ少し遠い甲子園の風が、かすかに球児たちを呼んでいる。
背番号のないエース
2025年4月19日、令和7年度の春季京都府高等学校野球大会が幕を開けた。新しいシーズンの始まり。選手たちが白球を追いかけるその横で、もうひとつの始まりがあった。京都・平安高校。そのベンチに、ひとりの男が立った。
川口知哉。

古今東西、プロ・アマ、あらゆるスポーツの中で最も憧れの人。その顔をグラウンドで見るのは28年ぶりだ。
1997年の夏、甲子園で全6試合を初回から最終回まで、ひとりで820球を投げ抜き、平安高校を名門復活に導いた。決勝戦を甲子園で父と弟と観た日は今でも覚えている。当時、中学2年生。それまで辞書的な意味しか知らなかった「尊敬」という言葉が、初めて体内で熱を持った瞬間だった。
それからしばらく、平安高校が甲子園に出場するたび、「川口投手に憧れて平安に入りました」と語る選手たちの声が、テレビの向こうから聞こえてきた。
あの背番号1が、真っさらな背中でグラウンドに、母校の監督として帰ってきた。
春夏あわせて19回、チームを甲子園に導いた名将・原田英彦さんのあとを継ぐ。重いリリーフ。それでも、甲子園を騒がせた大エースは淡々としている。
「もともと次期監督として戻ってきた。就任が早まっただけ」と静かに語るその口調の裏側には、覚悟がにじんでいる。
京都の野球=平安。それを証明しないといけない。令和世代の平安ナインは川口投手の現役時代を知らない。偉大なOBと親から聞かされているだろう。伝説がグラウンドに立つとき、そこにいるだけで、言葉のいらない重さがある。

選手と同じ坊主頭。サウスポーの腕は、もう振られない。だが、その左腕から始まった物語は、いま、指揮棒へと姿を変えて続いていく。あのときの球場と同じように、熱い風が吹いている。
春季大会 観戦記

京都市右京区、西京極野球場。今は「わかさスタジアム京都」と呼ばれている。桂川と天神川に挟まれ、陸上競技場が隣接し、京都のスポーツ文化の芯がある。その歴史は古く、プロ野球がまだこの世に生まれていなかった1932年(昭和7年)4月から、野球という営みを支えてきた。

2025年5月10日、土曜日。前夜からの雨は朝になっても止まず、予定されていた試合は2時間半の遅れ。午前9時半のプレイボールは、正午へとずれ込んだ。
球場の前で、ひとりのおじいさんが話しかけてきた。毎週、この球場に通っている。乙訓高校の応援で「平安は柄が悪い、マナーが悪い、OBが怖くて脅してくる」と、悪口の連射。けれど、それが愛おしい。これこそが、正しい野球ファンの姿、野球という感情の一部。
話を続けると、おじいちゃんは立命館大学の先輩だった。戦後、経済的な事情で理工学部を中退。立命館を褒めちぎっており、今でも同志社との「立同戦」は欠かさず観戦。
野球場という場所が、こうした出逢いをくれるのは、理由のない奇跡に似ている。

午前11時、入場券の販売が始まると、甲子園に直結しない一戦とは思えない列ができた。「けっこう並ぶんですね」と声をかけると、「平安が出るからや。京都にとって、平安は特別やねん」

平安高校には、チーム専用のバスがある。名門とは、そういうこと。対する乙訓高校は、京都観光の貸し切りバスを使ってやって来た。

4年間で一度も勝利できなかった令和の宿敵・京都国際をベスト16で破った平安高校は8強に駒を進めた。これで7月の地方大会はシード権を得られる。

西京極野球場は、両翼100m、中堅117m、フェンス4.4m。甲子園球場なみのスペックだが、外野席がないので収容人数は2万人。グラウンドに目を移すと、内野はクレー舗装、外野は天然芝。マウンドの傾斜は浅い。

野球場に珍しい京都カラーの紫。心地よい違和感。おそらく22年前に来たときはなかったが、京都で暮らした時代を不思議と思い出す。カラー・パープルが「おかえり」と言ってくれているようだった。

地方球場には珍しく、フードコーナーもある。

唐揚げ500円、コカ・コーラ150円。さらりとした油、効いた出汁。球場メシとは思えない丁寧な味。

雨上がりの五月の京都は蒸し暑い。グラウンドには、半袖と長袖のアンダーシャツが混在する。平安の選手は、全員が坊主頭。そこには、古豪ならではの風格がある。

一方の乙訓は髪型が自由。野球を楽しむという姿勢が、チームの空気に表れている。どちらが良いか悪いではなく、こうして並んで見える違いが、野球の幅でもある。

平安の新監督、川口知哉は、外野ノックから始めた。現役時代はエースで4番、バットでもボールでも観客を魅了した男。

そのあとは、バッテリーの状態をじっくりと確かめる。選手と仲が良さそうだ。

両チーム、今日はエースを温存。

平安は伝統のサウスポーを先発に据える。背番号11山本陽斗(3年)。球の伸びは上々。しかし立ち上がり、味方の守備ミスにもあり、2点を失う。

その後を受けた背番号10髙信春太(3年)も、乙訓打線の勢いに押され、1点を失う。

川口監督はベンチの奥で静かに戦局を見つめる。高校野球では異例とも言えるその距離感は、選手の自主性を促すためかもしれない。現役時代からそうだった。感情をむき出しにせず、ただ一球を見つめていた。
今大会は黙って見てようと思っていました。こちらも勉強しないといけないこともあるし、選手自身に自立してもらいたいというのもあった。相手投手をどう攻略するかを考えることもテーマに置いていましたので。
本来であればこうしたいなというのはあります。(その中で)うまくいかないこともあります。ただ、何が正解か、その時その時では分からない。決めつけるのも違う。悩みながらやりたいなと思う。いろんな可能性がある。(可能性を)消すのではなく、いろんな可能性を増やしていきたいんです。
自分たちがやりたい練習があれば、言ってくるようにとも伝えています。今の子どもたちは怒られることをあまり経験していない。女子野球に携わった際にも怒るのではなく、言葉で説明して落とし込んで、上を向かせるようにしていました。それらは(高校野球でも)一緒かなと思います。

『怪しいボレロ』。平安伝統のチャンステーマが何度も響き、大感動。しかし、1点を返すのがやっと。

乙訓高校は、本当に野球を楽しんでいた。声も、応援も、風通しがよく、爽やか。慶應高校が掲げた「エンジョイ・ベースボール」を、そのまま形にしたようなチームだった。

8回から、平安の背番号1臼井夏稀がマウンドに立つ。ここで試合の流れを変えられるのがエース。

身長170センチ。その小柄な体に、京都の寺院のような静けさが宿っている。平安はサウスポー文化だが、新たな歴史を築いてほしい。

躍動感のあるフォーム、ストレートの伸びは別格。打者の胸元を突き、観客の視線を奪う。

慣れない8回からの登板。制球が甘くなったところを乙訓打線に狙われる。しかし、要所を締めて無失点。

1-4のビハインドで迎えた9回裏。この日の乙訓は13安打。それ以上に特筆すべきは、送りバントの確実性だった。失策は両チームともに2つ。だが、平安はバントを失敗する場面があった。要所をしめることが、点差という形で現れていた。
ところが、試合はそのまま終わらなかった。春の天気のように予測を許さない。
野球というスポーツに神様が用意した「9回裏」という舞台。

平安は先頭打者がフォアボールで出塁すると、球場の空気がわずかに揺れた。そこに『怪しいボレロ』が響く。川口監督が甲子園に出場した1997年に誕生したチャンステーマ。味方を盛り上げるアップテンポな曲ではなく、相手を不安にさせる応援曲のパイオニア。

平安のスタンドとベンチが勢いを増すなか、乙訓は投手交代を決断。マウンドには背番号11。だが、すでに展開は急流の中だった。無死一塁から連打が続き、あっという間にノーアウト満塁。ショートゴロの間に1点を返され、2点差で1アウト満塁。ついに背番号1を投入。

女神様は平安高校に微笑み、試合を揺るがす一打。サヨナラ逆転の二塁打が飛び出した。大会前、川口監督が言った「背番号2桁の選手が伸びてきている」。その言葉を体現するフィナーレ。

土にまみれたユニホーム。拳を握りしめて吠える選手。その泥汚れは、どんな美しい絵画よりも映画よりも美しい。他のどんなスポーツにもない、野球だけが持つ終わり方。

平安の選手たちが、走者に駆け寄って肩を抱き合う。叫び、飛び跳ねる。スタンドで立ち尽くすファンの胸にも、何かが届いていた。

サヨナラ逆転、春の準決勝へ。平安の春は終わらない。

次に京都に帰ってくるのは7月の地方大会。どんなチームに化けているか。

川口監督の左腕は、すでに夏と、その先の甲子園を見据えている。
春の高校野球
平安高校のコラム
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