
甲子園球場が開場したのは1924年(大正13年)8月1日。そのときから、一塁側から三塁側までを大きく覆う半円形の屋根がスタンドの上に架けられていた。
金属の骨組みにトタン板を張ったその構造が、陽光を受けて銀色に輝くことから、やがて人々はそれを「銀傘」と呼ぶようになった。建設当初は「鉄傘」や「大鉄傘」と呼ばれた記録も残っているが、夏の日差しに屋根が銀色を帯びて光る様子が、この愛称を定着させた。

銀傘は主に内野席の上段を日差しや雨から守るための大屋根だ。特にバックネット裏のメインスタンドでは、約50段の席をすっぽり覆う。ただし、屋根の前縁はグラウンド側に深くは伸びていないため、前方の座席や中央付近。特にバックネット裏の下段から中段あたりは日陰になりにくい。真夏の正午前後には、中央席の多くが直射日光にさらされることになる。

銀傘はアルミ合金製で、夏の日中には陽光を反射する。その光が強すぎると、外野手が打球を見失う場面もある。さらに夏は白い服を着た観客が多く、銀傘の反射光と相まって、白球が背景に溶け込むように見えることがある。
戦前の銀傘は、今よりもさらに広く、アルプススタンドまで覆っていた。だが太平洋戦争中、金属供出のためそのすべてが取り外される。甲子園の空はしばらく屋根のないままだったが、第33回全国高校野球選手権大会が開かれた1951年(昭和26年)、大屋根は再び姿を現した。以降、形や材質は改修を重ねつつも、その存在は甲子園の象徴として球場にあり続けている。2028年には、かつての「大鉄傘」が復活し、アルプススタンドまで銀傘を拡張する。
銀傘の下で

八月の甲子園には、熱がある。
それは気温のことではない。もっと重たく、もっと静かに、確かに存在する熱だ。
試合前、外野の芝はまだ朝の色を残している。土の黒さが際立つのは、夜明け前に丁寧に水を含ませたからだ。観客席の奥、銀色の半月のような屋根がゆっくりと光を帯び始める。
銀傘、あの屋根は、球場に集まる者たちの記憶を知っている。炎天下、白球を追った球児たちの息遣い。地方からやってきた応援団のざわめき。勝って笑った声と、負けて泣いた背中。その全部を、半世紀以上にわたって黙って見守ってきた。
銀傘の下に座ると、ふしぎな安堵がある。灼けるような陽射しが和らぐからだけではない。あの屋根は、負けたチームにも等しく影を落とす。勝者の歓喜も、敗者の沈黙も、同じ銀色の庇のもとで包み込む。だからだろう、ここに座っていると、勝ち負けの境目が少しだけ遠くなる。
試合が終わると、スタンドの熱はゆっくり冷えていく。銀傘は何事もなかったように、次の試合を待っている。陽が傾き、金属の表面がわずかに赤く染まるころ、グラウンドではまた白球が放たれる。
その繰り返しの中で、夏は少しずつ終わっていく。銀傘は動かない。動かないまま、無数の夏を見届けてきた。そしてこれからも、誰かの最後の夏と、誰かの始まりの夏を、静かに見守り続けるだろう。
1997年、銀傘の下ではなかった夏
夏の太陽は、あの年もゴールドに輝いていた。シルバーの銀傘はその下で、変わらぬ静けさを保っていた。半世紀以上にわたってそうしてきたように、勝者も敗者も同じ光と影の中で見守り続けていた。ただ、その日は、僕たちは影の中にはいなかった。
中学二年の夏だった。父に頼み込み、双子の弟と三人、阪神電車に揺られて甲子園へ向かった。車窓を流れる街並みは、真昼の白さに少し滲んでいた。駅に降り立つと、湿った熱気が人の列の間を縫うように漂っていた。父は当日券を求めて、炎天下の人混みをかき分けて走っていった。
平安と智辯和歌山の決勝。午後1時のプレーボール。真夏の太陽はほぼ真上から西に傾きはじめ、バックネット裏10列目あたりの席は、完全に日向だった。銀傘は、僕たちの背中よりずっと高くにあった。屋根の影は、さらに上段の観客の背にだけ落ちていた。
銀傘は「全天候型の屋根」ではない。夏の甲子園では、影を探すパズルのピースのような存在だ。正しい場所に座れば、ひとときの涼しさを得られる。しかしその日、僕たちの座った場所は、太陽の直射の真芯にあった。
試合は熱を孕んで進み、スタンドの熱気とグラウンドの白球が同じ空気を振るわせた。観戦を終えたぼくの肌は、夜になる頃にはひりつく赤に変わっていた。風呂に入ると、傷口をなぞるように痛かった。
あの夏の甲子園は、銀傘の影の外にあった。それでも、あの眩しさと熱は今もまぶたの裏に残っている。あれからいくつもの夏を越えたけれど、あの夏を超える夏は、まだ現れていない。
甲子園の物語
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