
『フィールド・オブ・ドリームス』(1989)は、フィル・アルデン・ロビンソン監督・脚本によるファンタジー・ドラマ。原作はW.P.キンセラ『シューレス・ジョー』
舞台はアイオワのトウモロコシ畑。主人公レイ・キンセラ(ケビン・コスナー)が“声”に導かれ、畑を切り拓いて野球場を造ると、1919年のブラックソックス事件で追放された“シューレス”・ジョー・ジャクソン(レイ・リオッタ)ら往年の選手たちが姿を現す。1960年代の記憶、夢と希望、家族の絆。アメリカが自らの物語として大切にしてきた徳目を、野球場という場所に還元して描いた映画。音楽はジェームズ・ホーナー。上映時間107分。
『フィールド・オブ・ドリームス』(1989)レビュー

夕暮れの野球ほど、心を揺さぶる光景はない。炎天下の昼間でもなく、照明がきらめくナイターでもない。落陽に照らされ、長い影を落としながらボールを追う人影は、少年の記憶を刺激する。子ども時代に泥だらけで汗まみれになって遊んだグラウンド。手に馴染まないグラブ、真っ黒に汚れた運動着。『フィールド・オブ・ドリームス』は、その失われた原風景を、映像のなかに呼び戻す。観客は映画を観ながら、同時に自分自身の過去を覗き込む。
物語の中心にあるのは“旅”である。ケビン・コスナー演じるレイ・キンセラは、アイオワの農夫として慎ましい生活を送っていた。ある晩、トウモロコシ畑で「それを作れば、彼がやって来る」という声を聞く。理屈では説明できない衝動に導かれ、畑を削り、野球場を造る。その瞬間から人生は、過去と未来をまたぐ大きな旅へと変わっていく。
レイの旅は、アメリカ全土を駆け抜ける。アイオワからボストンへ、そしてミネソタへ。その移動は単なる地理的な移動ではない。探しているのは、白球の中に映し出される自分自身の在りかであり、父との関係の修復であり、人生の意味。野球は「旅」であり「探求」であり「赦し」なのである。
やがてトウモロコシ畑の球場には、かつて球界を追放された“シューレス”・ジョー・ジャクソンなどの面々が姿を現す。悔恨を抱えたまま、再びユニホームに袖を通す。
ここで野球は単なるスポーツではなく、罪と赦しの象徴へと変貌する。芝生に立つだけで、白球を追うだけで、無念は少しずつ洗い流されていく。野球のルールは過去を修正しない。しかし野球という営みそのものが、人間に新しい意味を与える。
この映画がもっとも観客の心を打つのは、父と子の物語に収束していく点にある。レイは若い頃、野球に夢を託した父に反発し、和解しないまま死別してしまった。父の葬儀にも顔を出さなかった過去は、拭えぬ傷である。その傷を埋めるのが、言葉ではなくキャッチボール。球を投げ、捕り返す。球を投げ、捕り返す。その繰り返しだけで、赦しは成立する。人生の中で最も単純で、最も深い対話がそこにある。やり直しはできないが、赦すことはできる。親子の距離を縮めるのに、言葉は不要だ。
ラストシーン。農場に明かりが灯り、遠くから無数の車が押し寄せてくる。ヘッドライトとテールライトが光の川をつくり、暗闇に帯のように流れていく。人は理由を求めて球場へ行くのではない。そこに行けば、何かが救われると信じているから行くのだ。
『フィールド・オブ・ドリームス』は、アメリカという国の精神性を丸ごと描いている。移民の国アメリカは常に過去と未来の狭間に立ち、失われたものを取り戻し、新しい希望を描こうとする。その物語をもっともよく体現するのが野球だ。
ベースを踏み、また元のホームに帰る円環。アメリカの夢と悔恨を同時に抱きとめる構造が、野球には宿っている。この映画は「父と子」の再会を描きながら、同時に「アメリカという国」の魂をも描き出している。
シューレス・ジョーやホワイトソックスの面々は、アメリカの“影”を象徴する存在だ。だが芝生の上でプレーする姿は、もう罪人ではない。ひとりの野球少年に戻っている。観客の眼差しが、過去を赦す。野球という営みが未来を救済する。野球は歴史の中で犯された過ちを書き換えることはできない。だが、人の心に新しい光を差し込むことはできる。
この映画を観る者は、ただ野球が好きだから涙を流すのではない。誰もが胸の奥に「投げ返してほしいボール」を一つは持っているからだ。失われた時間、言えなかった言葉、交わせなかった対話。それらをもう一度、ボールのやり取りとしてやり直したいと願う。その切実さを、映画は真正面から肯定する。
『フィールド・オブ・ドリームス』は単なる野球映画ではない。夕暮れのグラウンドに立つ姿は、過去の悔恨を溶かし、未来への希望を投げ返す。
これまでも、これからも、この映画以上に野球の存在意義を体現した作品は存在しない。『フィールド・オブ・ドリームス』は永遠に、野球映画のナンバーワンであり続ける。
『フィールド・オブ・ドリームス』回顧録

2023年11月7日、デビュー作『WBC 球春のマイアミ』を出した。フリーランスとして独り立ちした日だった。そこに至る道は、滑らかではなかった。
3月9日、WBCを東京ドームで目撃した。胸の奥に灯がともり、会社を辞めると心に決めた。あの日から僕の足は、全国の野球場を渡り歩き、台湾にも飛んだ。
大会の舞台となった場所を、自分の眼で確かめ、空気を吸うため。戦った選手たちを球場で見て、感じた真実を本に刻むためだった。
WBCというトーナメントを理解するには、それだけでは足りなかった。大学野球、高校野球の甲子園、都市対抗も追った。観戦した試合数は半年間で50を超えた。貯金は底をついた。残っていたのは電子書籍を出す資金だけ。
それでもまだ、行かなくてはならない場所が残っていた。アリゾナ州フェニックス、そして決戦の地・マイアミのローンデポ・パーク。
そこに立つには、借金をするしかなかった。デビュー作が売れる保証はない。生活はもっと苦しくなる。それでも行くべきか。逡巡の末、アメリカ行きを諦めた。
そのとき、不意に観たのが『フィールド・オブ・ドリームス』だった。借金をしてまで野球場をつくり、アメリカを横断するケビン・コスナーの姿に、心が揺れた。父と交わしたキャッチボールは、僕の中に眠っていた光景を呼び覚ました。夕暮れの中、父と長い影を伸ばしながら投げ合ったボール。うまく捕れず、何度も落とした。父と子をつなぐ細い糸のようなボールの往復。それは、言葉より確かなもの。
僕は決めた。仕事をもらっていた会社から、1年分の原稿料を前払いしてもらった。その金でアメリカへ飛んだ。
あの映画を観なければ、『WBC 球春のマイアミ』は、中途半端な後悔を残し、未完成の状態で世に出ていた。アメリカに立ち、空気を吸い、選手たちの姿を焼き付けたことで、僕の言葉は変わった。
翌年も同じように原稿料を前借りし、仕事を2ヶ月間休み、プレミア12を追った。『燃月』が生まれたのは、その延長線上にある。
すべての始まりは『フィールド・オブ・ドリームス』だった。あの映画は、人生の羅針盤だった。
借金はまだ残っている。2025年10月まで。それでも、あの映画を観た夜から、僕の時間は、別の速度で流れ始めている。
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WBCの球場すべてを回って取材した渾身のデビュー作

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